DR+20


 うっそうと茂る森の奥深く。
 今日、そこで一つの物陰が音を立てて茨の道を掻き分けていた。
「確か、この先なんだ……」
 薄暗い闇の中から現れたその男は、独り念じるように呟く。
 銀の髪に、淡い木漏れ日が差す。
 辺りから動物たちの活動の息吹が聴こえ始める、早朝の森林。
 小動物が樹の上でどんぐりを頬張るその影で、肉食鳥が潜む獰猛な気配に脇目も振らず、男は進む。
 いまは、男のとなりに一つの慣れ親しんだ気配がある。よく見ればその足元に、これまた一風変わった小さな生き物がいた。
「ご主人様、ボクも知らないところにゃ? ボク、初めて連れられる場所ですにゃ」
「……そうだな。お前は知らぬだろう。お前と出会うよりも、前だから」
 男は淡々と返答し、足を止めない。
 どうやらヒト語を喋るらしいその生き物は、もこもことした体で獣耳をぴんと立てて周囲を見回している。
「ルナン様。この森、他のところとは少し違うにゃ。……不穏、ボクそんな気がしますにゃ」
 懸命に後を付いてくる三毛色の毛玉。金色の瞳と同じ色をした鈴が、首元でまるっこい胴体に当たって音を鳴らす。
 ルナンと呼ばれたその男は、不安げな警告を聞き入れるや否や眉間にしわを寄せた。
「やかましい! そんな事はとうの昔に知っておる」
 苦しげな怒号。それは叱りつけるような類いのものではなく、喉仏を絞めたような叫び方だった。
「にゃ……?」
「俺はもう、この地に負けるほど弱くはない……一刻も早く、決着を付けなくてはならないんだ」
 自分の声音が存外低く発されたことに、ルナン自身が驚いた。大きな感情の波に心が掻き乱されるのを感じる。
 ――俺は、とんでもないことをしようとしている……。
 それでも、最早戻れないのだ。
 忘れもしないあの日から、今日という日まで揺らぐことのない信念。それを今更覆すことはできまい。
「ルナン様……」
 猫っぽい生き物は内心驚いた。物静かな主が、自分の目の前でこんな風に葛藤を垣間見せることは珍しい。
 なにか声を掛けなくては、と尻尾をそわそわさせている猫っぽいそいつを、ルナンは横目で見遣った。
 根を詰めた時など気紛れにはなるコイツのことは、案外嫌いではない。己を落ち着かせようと努めて冷静な表情で注意を返した。
「……それからアールズ。俺はお前に名前呼びを許可した覚えは無いぞ?」
「みゃああああっご主人様! すみませんですにゃあぁ!」
 涙目のもこもこが条件反射で謝った。要するに今のルナンの顔はめちゃくちゃ怒ってるように見えて、ものすごくおっかない。
 そうだった。ご主人様からはいつも名を伏せるように申し付けられているのに!
 詰まる所、この猫はどんくさい。
「外で呼んでは不都合だといつも言っておろうがぁあああ!」
 主が背中を曲げて大きく右足を振りかぶる動作を見る間も無く、猫──すなわちアールズは綺麗な弧を描いて吹っ飛んだ。
 樹の間をすり抜けていく。
「にゃああぁあぁああっんげふっ! いっ……いたいにゃ……!」
 背中を打って転がった地面が硬い。
 見れば、その頭上には有明の青空が広がっていた。
「へ? にゃんごと!?」
 森は唐突に途切れており、乾いた砂の気配を感じる石造りの床がそこにある。
 寂れた大きな石碑と、隣には地下へ続くであろう階段。
 ここだけが広い空き地のように開けた空間で、異質な空気を放っていた。
「すごいにゃ! 森に遺跡にゃー!」
「着いたか」
 一足遅れて木々を潜り抜けて来たルナンは、何者にも遮られない風を感じて目を細める。
 黒いマントが翻った。
「五年振りか、ここへ来るのは……」
 
        ◆
 
「ふおおおぉぉ……! すごい遺跡ですにゃ! ボク、遺跡って初めてなんですにゃー!」
「変なものには触れるでないぞ」
 興奮するアールズに釘を刺しておくルナンは、厳重な警戒を決して怠らない。
 石碑横の狭い階段を降りていくと、内部はレンガ造りの薄暗い通路となっていた。
 そこは等間隔に並ぶライトに照らされ、肉眼でもぼんやりと景色がわかる。
「はいですにゃ! この絵もなんだか古めかしいですにゃー」
 通路のところどころに、月と星空が描かれた彫刻の壁画がある。
「……さて、まずは確かめるのが先決か」
 へんてこな形をした壁画はアールズには変わった絵にしか見えないが、ルナンは時折それをじっと見つめている。
「なにかあるんですにゃ?」
「そうだな。一つ一つ意味があるらしい。例えば……」
 ルナンは一つの横長の絵に手を伸ばし、指先で静かに辿った。
 すると突如、その絵がルナンの体温を待っていたかのように青白く輝き出し、ごごごごと四方の壁が揺れ始める。
「……アールズ掴まれ!」
「にゃんですにゃ!? にゃあああああっ」
 アールズは慌ただしくルナンの左脚にしがみ付く。
(罠だったか?)
 地鳴りに揺らされ、額から汗が流れ落ちる。
 一方の壁が破壊され崩れ落ちてゆく。揺れは深刻さを増し、なんと今居る床が一直線に壁の失せた向こう側へと滑り突き出た。
「ぬあっ!?」
 地下空間で音という音が反響し、鈍い轟音が轟いた。
 天井と壁全てが消えたかと思うほど、通路の閉塞感がない。
 動きが止まり、遺跡は再び静けさを取り戻した。
「これは……」
 罠ではない。
 ルナンたちは、だだっ広い大広間のような場所に出ていた。
 天井は突き抜けて高く、これまでの通路の狭さが嘘のようだ。
「にゃ……デカイにゃ」
 ぺたんとアールズが座り込んだ。
 下にも道は続いており、柵の向こうに下層の広間が見渡せる。どうやら、自分たちが居るところはまだ上層部だったらしい。
「ほう、古文書の通りか。平面でなく上下に奥があるのだな」
 初めて感嘆の声で唸ったルナンに、アールズは意外さを感じた。
「じゃあ、前に来たとき、ご主人様は奥まで行かなかったんですにゃ?」
 主の性格を考えると、最後まで見なくては気が済まなさそうな場所なのに。
 というアールズの心をまるで読んだかのように、ルナンは冷ややかに言い放つ。
「だから今、来ているんだろうが」
 一方、空気の流れが変わったことをルナンは気に掛けていた。大広間に出たからではない、異質な“なにか”が。
「な、成る程にゃ! こんなところボクでも気になっちゃいますにゃー!」
 説明をどこか省略するのは、主の悪いくせである。直してくれることは正直期待できない。
 しかしこんなところだからこそ、説明をしている暇がない。
 ルナンはなにかを察知した。
「……おいアールズ!」
 主に叫ばれアールズは動揺する。
「にゃっ!? にゃにゃにゃんですかご主人様! アールズは何も悪い事考えてませんですにゃ!」
「よく見ろ馬鹿猫!」
 シッ、とルナンが目配せした先は遥か見下ろす下層だった。今居るところから丁度見える角度である。
 闇に紛れて、そいつは居た。