Prologue
「グルォオオオォオオオオオオーーッ!!」
獣の咆哮。
骸霊だ。それも通常サイズの奴ではない。常人から見ればとんでもない大きさの黒い怪物である。
その全長が人間の三倍はあるのを見てから、ルナンはまた“なにか”を奇妙に思った。
「ご主人さま……! ガイレイだけじゃにゃいにゃ!」
「なに?」
落ち着いた、否、血の気の失せたアールズの嗅覚がそう告げる。先ほどからルナンが妙に感じていたのは、あの鈍足な骸霊の気配では無かった。
全身を強張らせながら、鋭く感性を研ぎ澄ます。
「ヒトが居るにゃ!」
「──っ!」
瞬間、ルナンは地を蹴った。
「ルナン様ー!?」
眼前の柵を乗り越え、優に十マーレはあろうかという下層へと単身で飛び降りる。
「グォ……ッ」
うっすらと見える人影に迫っていた目を光らせる異形のものも、気配を感知したのだろう。急速に降下するルナンに向かって龍のように首をもたげる。
その間ルナンは、重力に逆らいつつ右脚を引き上げ目線を天井に向けると、無防備に首元をさらけ出した。
『来い……闇よ!』
すると突如、ルナンの周囲に紫電の閃光が纏われたのだ。そこで初めて見下ろす形で真下の巨大生物を一瞥する。
ルナンが右手を掲げるのと、獣が凶暴な牙を剥いたのは同時。
「俺はッ!」
「ギシャアアアアアッ!」
時が止まったように体感する刹那。
霞む速さで肉を抉ったのは、他でもない剣撃だった。
血塗れで硬直した骸霊の巨体が倒れ伏す。周囲にあった石碑が、音を立てて破壊された。
「復讐を、果たしに来たんだ」
反動でゆっくりと降下するルナンの右手には、闇色の大剣が握られていた。
骸霊がその目で大剣を捉えることは出来たのかは、誰も知ることなど出来ないだろう。
なびくマントに煌力を流し込む。ふわり、と屍の上を滑空し、まるで何事も無かったかのように下層へ着地した。
捜すべき本懐は、こんな獣ではない。
厳重な警戒と少しの期待感に逸る胸を鎮めつつ、霧の向こう側の空間を見遣る。
特異かつ大きな力を抑えた者の気配が確かに感じ取れて、ルナンは喉奥から低音を発した。
「姿を現せ」
右手の大剣を緩く構える。
最早判りきっているのだ──こんな人里離れた場所に居るのだから只者では無いことを──相手も、そして己も。
しかし、奥から聞こえた声は、
「げほ、はぁ、はぁ……」
幼さの滲む咳き込みだった。
「…………」
やはりおかしい。先ほどからルナンの本能に直接訴えかける危険な煌力の波動は、あんな風に衰弱した子供から発されるものではない。
「しんじゃうかと、思った……」
高く綺麗なソプラノが響き渡り、徐々に浮かび上がる霧の奥の輪郭線。
足を縺れさせながら床を踏みしめて歩いてくる小さな少女の姿を見て、ルナンは絶句した。
鈍い輝きを放つぼさぼさの金髪。細い四肢に纏った、激戦の後のような掠れて焼き焦げた衣服。
……驚いたことに、ルナンはその少女に確実な見覚えがあった。霧を抜けかけた少女の元へと駆け寄ると凄まじい剣幕で叫んだ。
「おい! お前は何故ここに居る!?」
ルナンの戦士たる余裕など、何処かへ飛んで行っていた。
我を忘れて詰め寄り、左手で少女の腕を掴む。
「この場所で、何をしていた!」
ルナンを眼前にした少女は、今はその声にも応える気力が無いと言うかのように呆然としていた。
倒れ伏す巨大な獣と遺跡内部の様子を一通り見渡したあと、やっと正面に向き直る。
綺麗な桃色の瞳をまあるくすると、パッと花が開いたような満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう!」
「……は?」
息を詰めていたルナンは思わず拍子抜けした。
「ねぇ、あなたがわたしを助けてくれたの?」
少女は、骸霊から血が出ているのと、ルナンの右手に血塗られた大剣が握られているのをもう一度確認する。
どうやら出現した骸霊の標的は、この少女だったらしい。
「否、そういう訳ではないが」
成る程。俺が来なければ、少女は何の造作もなく体を食い千切られ、死んでいたかも知れない。
だが己もまた、あの日、この遺跡で生を終えていたかも知れなかったのだ。
……この幼い少女に庇って貰わなければ。
ふと本人を見ると、少女は背伸びして長い髪を揺らしながら、懸命に上層部へ注目している。するとその方向から、
「ご主人さま~! ご無事ですかにゃ~!」
腑抜けた声が反響する。例の猫、アールズが長い階段を亀の歩みで降りてきていた。
「わあ! あの子、ぺっと? お友だち?」
「放っておけ。あれでも俺の”しもべ”なんだ」
好奇心で輝いている少女の顔とは裏腹に、ルナンは微量の怒りが滲んだ様子で言った。そんな話をしている場合ではないのだ。
「それよりもお前。そんなになるまで、ここで何をしていたんだ」
ルナンはもう一度、答えを促した。そして、自身最大の目的を問い掛ける。
「あの日。奴は、どうなった……?」
ルナンはある男を捜していた。
それは、己がここに来た理由そのものだ。当人は居ないようだが、こいつならば男の行方を答えられるだろう。
手間が省けた──そう思っていた矢先に、少女は首を振った。
「わからないの」
「……何だと?」
……この少女は、奴、あるいは何者かと戦ったのではないのか?
ルナンは未だ混乱に沸いている頭をフル回転させ思案する。
少女の、明らかに攻撃を受けて廃れたような服。鈍色の金髪も薄黒い肌も、砂埃で汚れているゆえの色なのだろう。
「だってわたし、なにもしてない……」
だが本人は、戦いなど知らぬと言わんばかりの口ぶりである。ならば何故こんな格好をしてここに居るのか、さっぱり事情がわからない。
そもそもこいつの言動はちぐはぐである。
「……どういう事だ? 俺は、当時お前が戦っているのをこの目で見たぞ。あれからどうなったのかと、訊いているんだ」
そして少女は少し顔を曇らせる。その口から発せられた答えは、ルナンの想像の遥か上を行っていた。
「あなたは、だあれ?」
『……は』
幼い言葉は、ルナンの記憶と信念を真っ向から否定するものであった。
「わたしは、あなたに何をしたのかな」
少女は手を組んで、静かに俯いた。自分が着ているボロボロのシルク生地の布には、金や蒼の刺繍が見える。
大剣を投げ捨てたルナンが肩を揺さぶった。
『おい! 誰が忘れるものか。五年前、奴から俺を庇って遺跡に残ったのは、お前だろうが!』
地に跳ねた大剣が主の意を汲んだかのように、刀身を曲げ虚空へと消える。
再び顔を上げた少女の表情からは、すでに過去の意思が抜け落ちていた。
「わたしは、なんなの?」
少女は、全てを忘却していた──