夕刻の手紙


四幕『旅ギルドなんて嫌だ』


 
  

 夜には少し早い、夕闇の時刻。
 昼から夜を繋ぐ静寂のとき。辺りは、薄暗な闇に覆われる。一帯の木々は枯れ果てて、禍々しい黒い大地の続く平野。ここに緑はおろか、小動物の一匹たりとも見つけることは叶わない。
 そこに、一冊の本が、浮いていた。
 黒い空間の中で、ひとりでに次々とページを捲るその書物──。常人ならばその目を疑うやもしれぬ光景であったが、その前に【長い白髪の男】が立っていることにより、言いようもない説得力を内包していた。どちらも、現実的な血の気を纏っていない。夢うつつの景色。
 男の薄い唇から、低い声が漏れ出る。
 
『──今はむかし……』
 
 ────そのむかし、〈闇者アシャ〉と呼ばれる異界の使徒がおりました。
 
 〈闇者アシャ〉は、世界を滅ぼさんとして、この地を侵略しました。
 彼らは数多の従者と異形──〈骸霊ガイレイ〉を引き連れ、美しい大地を荒らし、人々の命を奪いました。
 闇に生きる彼らの野望は成されるか、と思われたそのとき、天から〈戦女神セリスィ〉が舞い降りました。彼女が光の力を振るえば、たちまち大地は蘇り、緑がめぶき、悪には制裁を与えました。
 長い、長い戦いの末、〈闇者アシャ〉は〈戦女神セリスィ〉に討伐され、世界はあるべき平穏を取り戻しました。
 その後──、〈戦女神セリスィ〉はその手で巨悪を封印しました。彼女は今もどこかで、この世界を見守り続けています。
 めでたし、めでたし────。
 
 
 
 色白い男が、そっと手のひらを返すと、ひとりでに宙の本が閉じた。
 飾り気のない表紙を愛おしげに見つめるその男。
 
「ああ。いつ読んでも、とても、すばらしい英傑譚です」
 
 幽霊のような男は、噛み締めるように囁く。
 どこか懐かしい内容の本の冒頭文。
 村の子どもがひとりで読むには分厚くて、大人が読むには、少し幼稚なお伽話。
 
「そう……すばらしくて……」
 
 男が白く長い指先に力を込めた、瞬間。本は黒紫のモヤに包まれ、瞬く間に塵と化した。塵は虚空へと消え、無に還る。
 白髪の男──【スローグ】は、口許に半円の弧を描いた。
 
「つい……。皆殺しにしたくなる」
 
 おぞましいまでの狂気に、大気がわななく。細まる右目に浮かぶ赤黒いアザが、じわりと光った。
 背後で女の影が揺れる。
 
「スローグ、変わらないのね。私、この姿にもそろそろ飽きてきたわ……」
「じゃア今度、代わりを用意すればいーさ。いくらでも居るんだしサ」
 
 背丈の小さな影もまた、ケタケタと笑う。
 志を同じくする従者たちの声に、スローグは微笑を漏らした。
 
「フフ……人間は弱い。餌をちらつかせてやれば、いとも簡単に欲に屈する」
「あのオトコみたいに?」
「あれは期待はずれ、でしたが」
 
 男の返事に、女の影は高揚の色を乗せて語った。
「“教皇”っていうんだもの。もおっと強くって、面白い見せ物を想像してたのにねぇ」
 
 それは、主たる【スローグ】が見つけた獲物のことだった。
 現状の立場に物足りなさを抱え、苛立ち、くすぶっていた男。
 教皇はチカラを欲していた。一時的に大量の〈煌力レラ〉を与えれば、凡庸な男は歓喜し、そのチカラを私欲に利用し破滅した。
 哀れな男は〈銀の少年ルナン〉の血肉となり、糧となったのだ。
 
「けれども少し『溜まった』。そうでしょう、アルメス」
「そうだけどぉ──」
 まるですがるような、しかしお遊びのような声で彼女が続ける。
「この調子じゃあ、また何十、何百年とかかってしまうわ。私、そんなの嫌よ……」
「ならば、さらに純度の高い人間から〈煌力レラ〉を奪えばよいのですよ」
「そのトーリ!」
 
 少年の影がキッパリと同調し、手を振ると、大きな結晶が姿を現した。
 〈煌力レラ〉の生命力の溜まる半透明の欠片。人の悪意を映したような黒色をしている。
 
「ニンゲンの〈煌力レラ〉、たんまり集めないとナ!」
 
 幽霊男が首肯する。
 
「無論です。我らが復活した以上、あれを討つ日も近い」
 
 我らには、討たねばならぬ宿敵が在る。
 いにしえより討つべきものが在る。
 人自身の欲も。人々の抱く信仰も。醜悪で、露悪的で──そして、美しい。
 
 〈あの少年ルナン〉の抱いた野望も、そうだ。〈少年ルナン〉は、私を殺すのだという。この私に、いつか復讐を果たすのだと!
 
「ああ。もっとだ。もっと、激しく争わせないと……」
 
 ぞくり、男の背筋が震えた。
 色褪せた鈍色のマントが揺れる。
 白髪の男は異様な笑みを貼り付け、夕闇の空に言の葉を飛ばした。
 
「人の孤独、欲望、願い──。すべてが、我々のチカラとなる──……!」
 
 
 

 


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