DR+20


一幕『旅をしたい』



 …………
 ……
 「うまくやってるといいが」
 屋根から塀へと飛び降りて野に着地したルナンは、離れた岩陰に腰を下ろす。無理な姿勢で頭に血の上った少女も、やっと地面に足をつけることができた。
 あの場面で囮にアールズを召喚した判断は、恐らく正解だった。
 街中なので長くは持たないだろうが、街の中心部から外れたあの路地からならば、少し走れば骸霊ガイレイ避けの結界からも出られるはずだ。
「ねぇ、ルナン。こわいひと、もう追ってこない?」
「ひとまず、大丈夫だ」
「よかったぁ」
 ほっと息を吐くクルミ。
 気持ちが落ち着くと、押し込めていた感情が少しずつ思い返される。どうしても気になることがあって、乱れた長髪と紅潮した頬も鎮まらないうちに、ルナンにたずねなければいけなかった。
「ねぇ、ルナン」
 先ほど目の前で見せられた戦闘風景のひとつを、少女は忘れられずにいた。
「どうした」
 黒くて紫でもやもやして、人が吹き飛んで、いやな気持ちになる、あの力。
「さっきのこわいチカラは、なんなの?」
「あれは……」
 ルナンは口ごもった。
「わたし、あれをしってるみたい」
「……覚えて、いるのか?」
 クルミは考え込んでから、ルナンに向き直った。
「ルナンのことは、やっぱり知らない。でも、あの黒くてこわいチカラを、わたし、ずっと前に見たことある気がするの」
「俺の、あの闇の力か」
「ヤミっていうの? 初めて見るはずなのに、へんなの」
 やはり覚えていないか。そう思いながらも、ルナンは己の過去に思いを馳せた。
「あれこそが、俺が許せんモノのひとつなんだ」
 少女は、わからない、といった顔でこちらを覗き込んだ。
「俺は、元々、救うチカラが欲しかった。民を護る、騎士となるチカラが」
 青年はどこか遠くの山々を凝視して、語り紡いだ。
「だが、今はそうではない」
「?」
「俺は盗っ人で、法を犯す罪人だからだ」
 あまりの話の変わり様に、クルミはびっくりする。
「なんで? 人を、助けたかったんでしょ」
 ——この力のせいで——。
 黒い服の男はそう言って、右手で自らの首筋をきつく握り締めた。蹲る。
「あの時はそうしなければ、生きていけなかった」
 言葉の意味を飲み込んでから、少女は口をつぐんだ。俯き、歯を食いしばるルナンの表情は、すでに暗がりではっきりとは見えていない。
「齢十四の子どもが、突然、謎の呪いを理由に、野に、放り出されて……真っ当に生きていけるわけがないだろう」
 クルミはぞっとした。
 “窃盗、暴行、殺人容疑”。
 先ほど赤い制服の女性が言っていた台詞が、現実味を帯びた。
「全ての始まりは、お前と出会ったあの古代遺跡だったんだ」
 山のふもとの農村から、さほど遠くない地下遺跡。
 少なくともクルミとルナンは、五年前も、あの場所で出会った。
「今でも、ときどき夢に見る。この、闇を操る力を手に入れた、あの時のことを」
 脳裏に浮かぶのは、気の滅入るようなあの白昼夢だ。
「すべて、【あの男】のせいだ。五年前、あの古代遺跡で、気味の悪い顔をした、白い男が、俺に、この呪いを——」
 語り続けるうちに、青年の声は嗚咽が漏れそうな程に思い詰めた質のものへと変わっていた。
「——あいつさえ、あいつさえ居なければ俺は、昨日の事件にも!」
「きのう……?」
 少女には、ルナンの悲しみがわからなくて、ただただ呆然と訊き返す。
 ただここまで聞いても、ルナンが悪人には到底思えなかった。
 息を整えた青年が、面も上げないまま平静を装う。
「すまない。余計なことを喋りすぎた」
(ここまで一生懸命悩んでる人が、ほんとうに悪い人なわけないよ)
 クルミは首を振った。
「ううん」
 ルナンは吐き捨てるように言った。
「とにかく使えるものは使う。それだけだ」
 俺は【奴】に復讐をせねばならない。
 ルナンは決意を新たにしながらも、このことだけは少女には言えないと思った。こいつには、他人を傷付けるという目的自体、きっと理解できないであろう。
 そんなことを考えていると、先ほどの疲れにどっと四肢を襲われた。全身が怠惰感に包まれる。
 男が岩陰にぐったりと身体を預けたのを最後に、二人は暫し沈黙した。
 
 
 

 一体どれほどの時間が経ったのだろうか。
 どこか上の空なルナンには、まるで時間の感覚がなかった。
 茜色の彩りを失くしてゆく空を眺めながら、今日一日のことを思った。
「結局、五年前のことは何ひとつ分からず終いかぁ」
 一筋縄では行かない。
 無意味な一日だったな、とルナンは愚痴をもらしたが、隣の人物は真逆のことを言った。
「いみ、あるよ! わたし、今日が人生でイチバンたのしかったもん!」
「ふん。お前は過去の記憶が無いから、そう言」
 クルミは冷え切った意見を遮って、今はピンク色で覆われた胸に手を当てて柔らかに微笑んだ。
「新しいものをいっぱい見れて、嬉しかった。ルナン、ありがとう」
「俺は何もしていない」
 ルナンは謙そんすると同時に、さり気なく目を逸らした。
 少女はなんの屈託もない声音で続ける。
「それからね、わたし、もっと、色んなこと思い出したいの!」
「不安はないのか?」
 おどろいて、思わず再びクルミの顔を覗き込む。
 何の迷いも存在し得ぬ、真っ直ぐな瞳が青年を射抜いた。
「ないよ!」
「お前……」相も変わらず無垢な表情で笑っている少女を前にして、ルナンは毒気を抜かれたような気分になった。
 緩んだ口元で一息をつく。ひとときの暇の直後に、ルナンは突然ハッとした表情になり後ろを振り向いた。
「ほえ、なに?」
 岩肌に手をついて立ち上がる。
「……何かが来……否、これは」
 遠く、貿易街の屋根から白いものがドタドタ転がってくる。瓦のカーブで勢いよく塀を飛び越したそれは、なにやら大きな声を発した。
「しゅじさま、ご主人さまぁー!」
「アールズ!」
「んげふっ」
 緑の地面に向かって無様に落下したのを目撃する。主はおもむろに駆け寄ると、丸っこい獣の身体の状態を確かめる。
 擦り傷や疲労は認められたが、輪郭の感触はしっかりしていた。
「良かった。無事に帰れたか」
 アールズは煌力レラを完全に消耗すると、姿を保てず強制的に召喚が切れて、地獄送りになる。長いこと呼べない状態になってしまうことを、ルナンは心配していた。
 安心したように呟くと、アールズは普段のようにえばった。
「赤い服の人ら、上手く撒きましたにゃ! 足止め、がんばったにゃあ!」
 何かを成し遂げるたびに息急き切って報告してくるのは、この骸霊ガイレイの昔からのクセだ。おそらく変わることはないだろう。
「そうか、でかしたぞ!」
 よし、といわんばかりに猫をぐっと抱き寄せてわしゃわしゃと頭の毛をかき混ぜる。
 てっきりバテた体たらくに呆れられると思っていたアールズは意表を突かれた。
「今日のご主人、いつもよりお優しいにゃん?」
 ルナンは急に咳き込んだ。
「いいから、話はあちらで続けるぞ」
 眉根を寄せて移動する青年に抱き抱えられたアールズを、クルミが出迎える。
「猫ちゃーん! おかえりー!」
「ただいまにゃー!」
 両手を広げた少女に勢いよく飛び込む猫。
「赤い服のひと、こわかった?」
「もーグッタリにゃ。キシって、しつこいにゃ」
 その腕に抱かれた丸っこい体の生傷が、少女の素肌に触れた部分から淡い金色と共に癒えていく現象を、誰も目にすることはなかった。