一幕『旅をしたい』
“第10話 黒衣の疾走”
「ほぇええええ……やだ、やだぁ!」
幼いソプラノの声が港町に響く。
露店の立ち並ぶ中心部。少女を脇に抱えたまま、黒い罪人が疾走してゆく。
民衆は隅に誘導されており、そこはもとより広く感じた。次々と騎士が現れ、行く手を阻む。
「絶対に逃がすなあああ!」
「おおおおお!」
全方位、十人以上から剣を振り回されてはたまったものではない。
「弱い! どけ!」
ルナンは兵士に致命傷を与えぬよう攻撃威力を加減しつつ、内心冷や汗をかいた。
このまま逃げているなら、いつかは捕まる。または、路頭で殺し合う。
白黒つけるほか打開策がないのだ。
「みんな! やめてってばぁ!」
クルミは周囲に向けて叫んだ。
詰まる肺を叱咤し、空気を無理やり吸い込んで、ルナンは決意を固めた。
「いいかお前、街の外まで振り切るぞ!」
「そと、まで?」
青年の左腕に抱えられたクルミが後ろを見る。
「こちらが優勢だ! 皆、そのまま囲い込め!」
紅白銀の服を着た、大勢の大人が追い掛けてくる様子が視界に入った。
「むりむり、ムリだよ!」
「弱音を吐くな!」
わたしは何もできないのに、あんなのルナンだけでなんとかできっこない。
(そしたら、ルナンが捕まっちゃう……)
絶望的な気持ちになったクルミは、ただ喚くことしかできなかった。
「だれかぁああっ! たすけてよーー!」
「誰か……」
――そうだ!
青年の脳裏に一筋の稲妻が迸った。
「頼むぞ……クルミ。今から少しだけ黙っていろよ」
眼差しで問いかけた少女に、
「ただの、賭けだ」
青年はわずかに口角を上げてみせた。
足元の道は入り組むように狭まってゆき、気が付けば、周囲には店や明かりのひとつも見当たらない。
青年は貿易街の北口から入り、右往左往して走り続けるうちに正反対側の南口が見える位置まで街を縦断してきていた。
ルナンが右腕を一振りする。弧を描く軌道にそって消えた大剣の代わりに、右手は眉間の間で印を結んだ。
「我――契約を重んずる者なり。其こそは我に使役されし意を示せ! 器を形成せし主命を与うる……汝の名は……」
(……なにかが来る!?)
聞き覚えの無いうたい文句を奏でるルナンに、カイナは危機感を覚えた。
「攻撃が来る、気を付けろ!」
機を見計らったようにその唄は結びの句を唱えた。
「出でよ! ――……!」
街路樹のある角を右に折れると、青年の声はせまい路地の壁に吸い込まれていった。
「……先導! 見失うなよ!」
大きな土砂崩れの音がしたと思えば、建物の壁が崩れていた。
黒いマントの男の背を追い角を曲がった先を確認すると、薄暗い路地に、瓦礫が落ち、道などない。行き止まりだった。
「…………」
その道を塞ぐようにして突っ立っている青年の姿があった。
先ほど消えた大剣も、男の右手に握り直されてはいなかった。
「きさま、どういう心境の変化だ? ようやく観念したか!」
こちらに向き直ってはいるのだが、深く俯いていて表情は確認できない。どこか不気味な様子だ。
何か企んでいるのだろうか。騎士たちが、思わず慎重に反応をうかがう。
ここでカイナは、重大なことに気がついた。
「待て。あの少女は、どこへやった?」
例のちいさな少女の姿がどこにもない。カイナの問いに、騎士たちは押し黙ってルナンを警視した。
「…………」
青年は、この状況下に置かれてなお、ただ静かに黙っていた。今は騎士が煽られているさまを、耳で捉えるだけでいい。
「ルナン! 答えろ!」
「くっ……」
青年は微かに呻いてみせるだけだ。
しかしよく観察すると、黒衣の青年は肩を上下に揺らしている。
息が荒くなっていた。
あれだけのハンデを背負って十分近くも疾走したのだから、当然とも言える。
が、少し覗いたその顔色は、只事ではない蒼白さだった。
「——まさか、人質の身にもしもの事があれば、きさまただでは」
済まさないぞ、の台詞に被さるように、満を持して青年が動く。肩を落とした罪人の口から、問いに対して初めて言葉が発せられた。
「もう息がもたな……! ぐふえぇぇぇ」
「は?」
向かって右分けの短い前髪が額に張り付き、大粒の汗が伝う。頬には白いヒゲらしき二本線が目視できる。
瞳孔を細めた金色の瞳が、口元に挑発的な笑みを飾った。
「うっ、うぇっ、へへん! ぬしら、引っかかったにゃん!」
ようやくその面をあげた黒衣の青年は、今や少年のように歳若かった。
顔色が悪いながらも、相手はルナンによく似た――まるで双子のような――別人であることが確認された。カイナは咄嗟に実況した。
「ルナン・シェルミクじゃない!?」
煙の出る呑気な音を立てて、
「おさらばにゃーっ!」
完璧に猫になったそれ、すなわちアールズは、よろめきつつも俊敏な動きで屋根の上へとのぼって行ってしまった。
「あっコラ! まて!」
逃走劇の終結は、いわゆる“おとり作戦”。相手は身軽な骸霊の猫。
「……どうやら、今回も逃げられましたね」
気付いた時にはすでに遅し。
「くっそお!」苦い顔をするカイナ。
ルナンが盗みに手を染め、果てには人命を左右させる犯罪を行っているという報告を、カイナ自身は未だに信じられないでいる。
(あいつの有無を言わさぬ抵抗ぶりは、殺しにまつわる犯罪報告も、事実、と捉えるほかなくなるではないか。)
「ルナン……あんな奴では、なかったのに」
騎士の嘆きを聞くのは、部下たちのみであった。
夕刻の暗がりに響いた足音。
『我! 契約を重んずる者なり。其こそは我に使役されし意を示せ! 器を形成せし主命を与うる――汝の名は、我の言霊――出でよ! アールズ=シェルミク……!』
声は夕闇の中に、溶け込んだ。