序幕『目的と記憶』
◆
「きゃあぁー!」
高いソプラノの悲鳴。
それは暗緑の森の奥、ひっそりと佇む小屋から響いた。
「やめてっ、つめたい! ひゃ、くすぐったーい!」
「くっ! だまれ、こんな汚れた状態で部屋をうろつかれてたまるか!」
俺は室内の小さな水浴び場で、ぼろい布切れを纏った少女の髪をがしがし洗っていた。
びちょびちょになった着衣を体ごと抱きしめて、少女は足踏みしまくっていた。
「がまんするにゃ! ご主人さまの命令なんですにゃあ」
アールズは諭してくれている。
遺跡を探索したときに巡り合った、少女。まだ小さな子どもを、危険と知る場所に放っておくという選択肢はルナンの脳裏にはなかった。
出会ってまだ数刻の少女を連れて、とりあえず俺は住処へ戻ることにした。
《闇ノ冥門》……あらかじめ方陣を仕掛けておいた場所まで空間転移をする呪文だ。
そして俺は自宅、石造りの小屋に居る。ここは、居間の外れのシャワールーム。
ただし降り注ぐ水を出すのは機器でなく、ルナンの手のひらである。この近辺には小川が流れているので、水が使いやすい。
「体は自分で拭え! 服は適当なものを置いておくから、着終わったら出て来い」
くすんだ髪の汚れを洗い流したルナンは、洋服棚の奥からバスタオルと黒い塊を引っ張り出すと、
「分かったな」
と捨て台詞を残して奥の部屋へと消えていった。
その際、ぐふぉっとかいうマヌケな呻き声が聞こえた。気のせいである。
「ほえ、まってー! これ前と後ろどっち?」
ルナンにとって、幼女の体は好き好んで興味を持ちたい対象ではなかった。
アールズの首根っこを引っ掴み、早足で出てきた。
うるさいのにしばらく外を見張るようヤケクソ気味に命令すると、猫は飛び上がって見張りに行ったようだ。
「自分で見んかー!」
何にせよ、先に身なりと体の汚れをなんとかしないとな、というルナンの考えは若干無理があったらしい。
「あ、お洋服に髪のけの水ついちゃった!」
「先に水気を取れ……」
ルナンは目を瞑って肩を落とした。
俺はこんなことをしている場合ではないのに!
薄い板間を挟んで、きゃん、やかましい、これなに、見るな早くしろ、えーまってー……と、なんとも聞くに堪えない感じの会話が交わされる。
ほんの少し体の汚れを落として服を着せるだけの作業に、それはそれは大変なさわぎがあった。
「できたー!」
そうして出てきた少女の痩身は、
──だぼだぼ過ぎて服に着られていた。
それからまた時計の針は進む。
ルナンが少女に一度着せた黒服を合わせて縫っている。
そのあいだ、当人は肌着を着てそわそわしていた。
「ね、それ、指ちくちくしないの?」
「黙って待ってくれ」
ルナンはただでさえ細かい作業がキライだが、横で賑やかにされるのはもっとキライだ。
「じゃあ、危なくないか見ててあげるね」
そう言うと、俺の手元をお山座りで眺めはじめた。えらく真剣な眼差しを感じて、ますます集中しにくい。が、怒鳴ると本当に針で指を刺してしまいそうだった。
「ならば、勝手にするがいい」
横目で改めて見てみる。
そいつは細い腕で、ひざを黒い衣服ごと抱えている。潤って波打つ金髪と、まあるく無垢な瞳。
目をみはるような美少女である。
(忘れるはずがない。俺は、確かにこいつを知っているはずだ。)
だが今のこいつは、俺の知っている者ではない。昔の少女は、意思を感じる強い瞳だった。……襲われ傷ついた齢十四の俺を庇いながら、おぞましい男と勇敢に戦っていた……眼前の、まばゆいチカラを秘めた瞳。
あの少女の意思は、どこへ消えてしまったのだろう。
俺が感傷に浸っていると、少女はぼんやり呟いた。
「ねえ、あなたは、ルナンっていうんだよね」
「なぜ知っている? 思い出したのか!?」
少なからず驚いたルナンが跳ねるように訊き返すと、少女もぴくっと肩を跳ねさせてから首を振った。
「ううん。さっき、いせきで猫ちゃんにルナンって呼ばれてたから」
「なんだ」
期待して損した。
あの猫、いつまで経っても言いつけを覚えないものだ。無能なしもべは、主人の煌力を消耗するくせに知能がペット以下である。
あとで念入りにしばくことを心に決めながら、ルナンはハタと気が付いた。そういえば、己も肝心のこいつの名前は知らぬのだ。
まず最初に確認すべきこと。
「お前、本当に、なにも覚えていないのか?」
こいつの出自と記憶だが、それは俺ばかりが気になっていることではない。
「……わからない」
「名前や思い出のひとつすらも?」
わからない、の一点張り。わからないと口にするたびに、こいつはその表情に暗い影を落とす。
おそらく本人が最も気に病んでいることだ。
「思い出をたどっても、なんにもないの……わかるのは、すごく高いレンガの天井が見えたの。倒れたからだを起こしてみたら、いせきだったこと」
「俺と会ったのは、その直後か?」
「そう。こわいガイレイがこっちに来て、襲われちゃう、と思ってちっちゃくなってたら、声がした。『ルナンさま!』って」
少女は少しずつ言葉を繋げていく。彼女のなかには、その部分の経験しかない。
「だれかわからなくて、こわくてぎゅって目をとじてたら、大きな音がして。さっきのが倒れてたの。そしたら、黒い人がそこに立ってた」
「それがアールズの声と、俺か」
その後は俺にもわかる。
少女がぼろぼろの服を着ていて、肌も髪も砂ぼこりで薄汚れていたこと。その幼い顔や細い腕には、いくつもの赤黒いかすり傷が付いていたこと。
そしてかすり傷は、古代遺跡を出たあと、綺麗に治っていたこと。
「うん」
「そうか」
これ以上得られる情報は無いと悟る。
縫う手で糸先を丸く留めると、強引に歯で根元から糸を切った。黒い服を少女に放り投げ、ルナンは無言で周囲を片付け始める。
「わ、なにか終わったの?」
「その上から着ろ」
促されるままに、うんしょ、と肌着の上から着る。
姿見を見て、少女はびっくりした。
「ルナンすごーいっ! 黒いお洋服、ぴったり!」
「ただの即興だ」
手で持つ縫い針に通した黒い糸を口元で咥えながら、くぐもった声でルナンはそう言った。
「俺が十代半ばほどの頃に着ていたものだ。十分に着られるだろう」
やはり裾はずいぶん長い。袖をこいつに合わせただけだが、元のボロ布切れよりはましだ。
自分のクローゼットの肥やしがこんな形で役に立とうとは、夢にも思うまい。
「うん! お洋服がなおったのっ! うわあ~」
少女はその場で、気持ち良さげにくるくると回ったりしている。
あまりはしゃぐなよ、と注意を促してからこれから先のことを考えた。
俺の頭の中では、やはり少女の過去のことが討議されていた。
「思い出せない、か」
詰まる所、この少女はいわゆる“記憶喪失”だ。
こいつはたったあれだけの事しか、思い出せないという。あれが、今のこの少女の全てなのだ。
しかしもっとも不可思議なのは、言語や行動の仕方はしっかりと覚えているということだ。
見た目よりもたどたどしくは感じるが、コミュニケーション自体は問題なく取れるではないか。
(つまり、記憶喪失とはいえど、過去の限られた部分だけが抜けているのか……)
「案外、経歴に関連するものを見れば記憶は蘇るかもしれぬな」
「わ、わたしの記憶、もどるの!?」
少女が、ぱっと顔を上げる。
希望に満ちた目を見ながら、ルナンは再び己の思考に身を沈めた。
こいつの記憶さえあれば。
あの憎い男の行方もわかるやも知れぬ。
「アールズ、行くぞ!」
「呼ばれましたにゃー。お出掛けにゃん?」
小窓から勢い良く顔をだす茶色の三毛猫。
ちなみに先ほどまでシバかれるかも知れなかったことをアールズは知らず、ルナンもすっかり忘れている。触らぬ神に祟りなしである。
「こいつの記憶、賭けてみる価値はある」
すべては俺の目的のために。