DR+20


『闇夜の約束』



 遠く見やれば、岩の壁があった。
 生い茂った草原の中、記憶通りの位置に薄暗い洞窟があるのを目視し、男は胸を撫で下ろす。
 真っ黒なマントをまとう銀髪男の両手は、ふさがっていた。
 その背に金髪が揺れた。ちいさな女の子が、無気力におぶわれている。
 桃色のワンピースが、男の歩幅と同じくひらめいた。
「すー……すぴー……」
 すやすやと夢の中の少女は、その寝顔も愛らしい。
 体躯がずり落ちてしまわないよう、男はもう一度少女をおぶりなおす。岩の壁に向けて、再び歩を進めていく。
 とっぷりと日は暮れ、赤い太陽は闇の中へと沈んでいった。
 今宵、月は無い。
 微弱な星の明かりだけが、この静寂の夜を照らしている。
 視界も、いまいちはっきりとしない。
 おぼつかない足元を、感覚のみで踏みしめつつ、壁際の穴倉へと辿り着いた。
 岩棚の奥を覗くと、大の大人が屈んで入れるような高さと、人が二、三人横になれそうな隅の空間。
 フィールドからは見えない死角だ。
 ほかに人影がないか、生き物の姿がないか、入念に周囲を探ってみたが、今は小動物の一匹も見当たらない。ここなら、外敵に見つかる心配も少ないだろう。
 軽い体をそっと岩陰へ降ろしてやった。
「ふぅー……」
 ようやく落ち着ける。
 こうして騎士団小隊から逃げ果せた俺たちは、小ぶりな洞窟へと身を隠した。と……そういうわけだ。
 追われているのは主に俺のせいではあるが、俺だって好きでこう在ったわけではない。物事には抗えぬ必然があるのだ。
 例えば、働くアテのない子どもが一人、野で生きる方法、だとか。
 助けなどどこにもなかった。ときどき、あの薄暗い感情に気を飲まれそうになる。
 思考を巡らせていると、目の前の物陰に身動きがあった。
 寝息を立てて眠りにつく少女――クルミだ。
 きょう丸一日歩き回ったのだから、疲れて当然だろう。今は岩壁に背を預け、ぐったりとしている。
 クルミは、どうだったろうか。
 少女には記憶がない。どんなショックでそうなってしまったのかは見当もつかぬ。
 しかし『記憶がない』というのがどれほどのことか、想像することはできる。
 自分が何者か、全くわからないという空虚さ。
 すなわち、自分がどこに生まれ、何を経験し、誰と心を交わしたかすらも思い出せないという恐ろしさだ。
 それは、いま立っている場所になんの感覚もないのと同じことだと、俺は思う。
 だが、俺はこの少女……に、よく似た少女を知っている。
 か細い体で神々しい魔煌ヴィレラを駆使し、【恐ろしい男】と勇敢に戦っていた後ろ姿を、俺は霞む視界で確かに見た。
 揺れるセミロングの金髪に、舌ったらずなソプラノの声が非常に印象的だった。
 傷だらけの四肢と、涙に歪む桃色の瞳を、己はどうしても忘れることができない。
 無意識に、右手を伸ばしていた。
 金の髪は、さらり、と心地良い感触を伝えてくる。こうして静かに眠っていると、まるで人形のように美しい。閉じられた目蓋の奥を思って、俺は本日数度目の確信をした。
 この少女は、きっと、五年前の少女だ。
 声音から雰囲気まで、あの少女と完全に合致している。
 当初よりも背丈は高くなり、髪も随分伸びてはいるものの、それは五年という月日を如実に感じさせる。
 ルナンと出会う直前まで意識がなかった、と話していた少女の言葉を思い返して、俺はある種の不安に駆られた。
 ――もし、このままこいつが目覚めなかったら。
 記憶の中の少女とクルミが同一人物であったとして、聞きたいことは山ほどあった。
 俺はどうして、【妙な男】に狙われてしまったのか。そんな幼年の俺を、さらに幼いお前がなぜ助けようとしたのか。お前は当時、どんな境遇にあったのか。あの男【スローグ】は今、どこにいるのか。
 投げ掛ける当てを無くした問いは、夜空へとしぼんでいく。
「うぅ……ん」
 少女がわずかに寝返りを打った。
 その背が小刻みに震えている。
 肌寒いのだろうか。そういえば、洞窟内はよく冷えている。
 ――恐らく、すべては俺の杞憂だ。
 ルナンは物想いをやめると、無言のまま簡易な防具を外した。首元の留め具を取り外す。
 元はマントであった漆黒の布地を肩から剥ぎ取り、そうっと少女へと被せておいた。幸い、小さな体を覆う布地としてはぴったりだ。
 二の腕と首回りに寒気を感じつつも、少女の隣、俺は静かに腰を下ろした。
 
     ◆     ◇
 
 温かい感覚に包まれた気がした。
 胸の奥をくすぐるような懐かしさ。
 ほっとするのと、ざわざわするのが、交互に押し寄せてくる。波に引き寄せられるみたいにして、一筋の光がやってきた。
「んん……?」
「ああ、起こしてしまったか」
 隣には銀髪のお兄さんがいた。紫の目で、申し訳なさそうにこっちを見てる。
 この人の名前、わたし、ちゃんと知ってる。
「ふわ……ルナン、おはよう」
「まだ、夜半だぞ」
 そう言われて周りを見たら、暗闇の中に岩と土しかなかった。
 わかった。ここはルナンが言ってた『モヨリのどうくつ』だ。
 わたし、どれくらい寝てたんだろう。
 ぼんやりしていたら、ひゅ、と夜風が吹き込んできた。
「ふぁ……くしゅっ!」
「おいおい、やはり体が冷えたのか?」
「え、えへへ、きょうはさむいね!」
 そう言いながらわたしは「なにか」を手に握っていることに気がついた。
 全身を覆う、まっくろい布の端。こんなのしらないけど、ルナンなら持っていそうな色。
 隣に目配せしたら、彼はまたバツの悪そうな顔をした。
「悪いな、それしか無いんだ。我慢してくれ」
 ルナンが白い。顔の色じゃあなくって、なんだかとっても白くてへんに見える。
 おかしいな。ルナンはもっと黒くて、厚着で……。
「……あれ? る、ルナンが着てたの? これ」
「今更だな。マントは一応防寒具にもなる。使え」
「ええぇっ!? わるいよ、そんなの!」
「どういう意味だ……」
「えっと、違うの。それじゃルナンがさむくなっちゃう」
「ガキがそんなことを気にするな。俺は頑丈に出来ているから、お前が使ってくれ」
「でも……」
 多分、このひとが普段から着ている服。
 首元まですっぽり入ってみると、あったかい。
 でも、こんなに分厚いマントをいつも着てるんだから、ルナンは寒がりなのかもしれない。朝まで半袖の薄着じゃあ、きっとつらい思いをしてしまう。
 また横目で見てみたら、本人は肩をすくめて、鼻を啜ってた。
「ほら、やっぱりさむいって」
「放っておけ。俺はこれでいいんだ」
「やだ」
 自分ばっかり助けてもらうのは、いやだった。
 ちょっとだけムッとすると、わたしはズレた体勢を立て直した。そして、全身を覆っていた黒い布きれを引っ張って、彼の腰に被せてあげた。
 彼の全身はとても大きいけれど――わたしがくっ付けば、ちゃんと布きれに二人収まることができた。
「いっしょに入ったほうが、あったかいよ」
「…………」
 ルナンは、そっぽを向いてしまった。
 けれど、押しのけたり離れたりすることなく、そのまま隣にいてくれた。
 
     ◆     ◇
 
「少し、いいか」
 意味を持たない素朴な一言が宙に浮いた。
 それは、不都合な沈黙を破るには丁度良かった。
「なあに?」
 少女は律儀に返事をしてくる。こちらを見上げていることは声音で察知できた。
 余計にそちらを向けなくなった俺は、独白のように呟いた。
「お前は何故……嫌とも言わず、付いてきている」
 ふと、疑問に思ったことであった。
 俺は今日一日連れ回した。それについて、こいつはただの一度も『断わっていない』。
 しかし、騎士から追われていたとき、少女は追っ手を見て心底嫌そうに喚いていたような記憶がある。
 あの場合、追いつかれても捕まるのは俺だけだ。
 こいつが嫌がる理由はなんだったのか。
「なぜ、って?」
「別に、俺に付いてくるくらいなら、その辺りの騎士にでも迷子だと伝えれば良かったんだ。その一言だけで、お前は今よりは温かい思いをしていたはずだ」
「……うーん」
 再び沈黙をもたらしたのは、少女のほうだった。
 何を考え込むことがあるのか知らないが、少女も岩壁を眺めて物思いを始めた。
 もしかすると、騎士自体を今日まで知らなかっただろうか。だとすると無意味な質問だったが。
 しかし、考え込むということは、本人にも何か思い当たることがあるやもしれぬ。
 俺は何も言わず待ち続け、無機質な岩肌をひたすらに眺めていた。
 どれほど待ったのかは解らない。
 ときを忘れたころ、控えめなソプラノが俺の名を呼んだ。
 相変わらず、目の覚める美しい声だった。
「きっと、わたし……ルナンから離れたくなかったの。いま離れたら、ルナンがいなくなっちゃいそうで」
 少女はそう言って、俺の右腕にぎゅっとしがみついた。
 めまいがするほど、やわらかい。いやまて、頭の処理が追いつかない。
 つまりこいつは、自分で選んで俺とともに居ると、そう捉えて良いのか。
 しかも、俺がいなくなりそうだと?
「いなくなりそうなのは、お前のほうだろうが……」
 第一、わけのわからない遺跡で倒れていたのはこいつのほうだ。その上、何にでも興味を持ち、ふらふらと周囲を歩いて回る。そんな子どもが、何を一丁前に大人の心配をしているのか。
 少なくともいま、この少女を手放す気など俺には微塵も無かった。
 見当違いもはなはだしい。
「なんで? わたし、ルナンの遠くに行ったりなんてしないよ。したくない」
 驚いた。返ってきたのは、己の考えを模写したかのような返事であった。
 振り向くと、少女は小ぶりな頬を膨らませていた。幼いたれ目で睨んではいるものの、迫力は皆無だ。
「怒っているのか?」
「……うん、おこるよ」
 どうやら本当にご立腹らしい。ぼんやりしている少女にも、一応の拘りどころがあるようだった。少女はソプラノをひときわ強めて言い放った。
「ルナンはわたしのともだちで、お兄さんで、大切なの。ぜったい離れない」
 洞窟に響いたその断言は、幼いながら心からの主張のようだった。クルミは臆面もなく言い切ると、顔を寄せて尋ね返した。
「わたしはルナンにとっての、なあに?」
 俺は今度こそ返答に迷わなかった。
 これは五年前、少年時代から変わらない答えだったからだ。
「俺の……恩人だ」
「おんじん?」
「ああ。俺を救い、支えてくれた存在だ。そんなお前を……俺は守りたい」
 自分でも、奇妙なことを言っていると思った。
 こいつのことは、【スローグ】への復讐のついでのはずなのに。
 年端も行かぬ少女に肩入れをしてしまっている己が、酷く滑稽に思えた。
「忘れてくれ」と、その場しのぎの蛇足を付け足してしまうほどに。
 元々、分かってもらおうとは思っていない。
 なぜなら、少女本人はもちろん、それを覚えてすらもいないのだから。
「ううん……ありがとう」
「なっ」
 クルミは真っ直ぐに俺を見て、眼許をやや和らげながら続けた。
「ルナンの大切な思い出、忘れないようにするね。いつか、わたしの記憶が戻ったら……もういっかい、ちゃんとお礼が言いたいから」
 柔らかな笑顔には、屈託などなにひとつ無かった。
 俺は何といったら良いのか、わからなくなった。いつかの大切な人の笑顔に重ねてしまったことも含めて、それは得がたく儚いものに思えた。今にも消えてしまうのではないか、と。
「ならば先の言葉……二度と忘れるな。ずっとだ」
 喉奥から絞り出せた声は、情けなく掠れていた。
「うん。やくそく、する……」
 ――約束。ルナンが繰り返すと、少女はもう一度うなずいた。
 こっくり、こっくりと波打つその頭は、睡魔に襲われているのだろう。
 重そうなまぶたを懸命に持ち上げている様子は、年相応に見えた。
「眠い、か?」
「ん……」
「大人しく、眠るといい。夜は長いからな」
 落ち着かせる意図を込めて、そうっと頭を撫でてやる。
 少女はついに体を支えきれなくなったのか、その体重をこちらに預けてきた。
 それにしても、初対面、出会って一日の男の胸を枕代わりとは。
 いい度胸をしている。
「すぅ……」
 しばらくすると、少女は寝息をたてはじめた。
 温かい。こいつは本当に、まだ子どもだ。
 行き場を無くした右手は、少女の肩を抱く形になってしまった。膝を枕にされては面倒ゆえに、支えるだけだと己に言い訳をして。
 洞窟内は静かになった。
 俺はただ瞳を閉じて、夜の空気を感じ続けた。
 頬を刺す冷気は、今宵に限って心地が良かった。

 

 

END(2016/02/28・〆)



ルナクルはともだち以上恋人未満。たぶん。
はじめての野宿的内容です。火くらい起こしたらいいのに……。でもそうしたら遠目で騎士にバレそうですよねってことで!
何気にルナミザ短編『バルコニーにて』への短編リベンジだったりしました。


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