DR+20


『バルコニーにて』



 それはある不器用な男の、初夏の記憶である。
 真っ暗闇の中、灯りは無い。
 黒のペンキを延々と延ばしたような暗闇の中、うっそうと茂る暗緑の木々の奥にぽつんと小振りな家があった。
 石造りの民家のバルコニーから、その暗闇を眺めるふたつの影。
 少し肌寒い、夏の夜の風。二人にとっては心地のよい静寂である。
「良い風だ」
 男が低く呟く。
 テーブルに向かい椅子に腰掛けているその男は、静寂を肌で感じながら月を見遣った。
 今宵の月は、黒を楕円形に塗りつぶしたような、か細い弧を描く三日月だ。
 その光は弱く、だが確実に俺たちを照らす。
 同じく、向かい合って座りそれを見つめる隣の人影が口を開いた。
「うーん、まだちょっと外はつめたいかなぁ?」
「……む、お前にはやはり寒いか?」
 天を見上げたまま俺が言うと、隣のそいつは少し苦笑いを漏らす。
「違うよ、だって」
 光を受けた横顔が不意にこちらを向いた。
 金に照らされた髪と深い碧と闇を含んだ色の瞳が、俺のほうに視線を向ける、気配。
 耳に届くトーンの高い声。
「そんな薄着じゃ、いくらルナン君でもカゼひいちゃうよ」
「……! なんだ」
 驚き思わず振り向いた。
「俺の心配か。俺は構わん、これで丁度良いのだから」
 際、女の純粋な瞳と視線がかち合ってしまい、またも不意を突かれる。
 湧いて出てくる気恥ずかしさを隠すように、右手で乱暴にグラスを煽った。
 そんなルナンの仕草をじっと見て、女は尚言葉を紡ぐ。
「ね、どうして今夜は私を呼んでくれたの?」
「……決まっておるだろうが。お前と、二人で飲みたかっただけだ」
 ルナンは眉間に皺を寄せながら、決まり悪そうに言葉を吐いた。
 ふと手元に置いたグラスを見つめる――以前旅先で購入した、綺麗に弧を描くワイングラス――それは、今宵の三日月とよく似ている。
 そこに注がれているのは、まろやかな葡萄酒…こちらも、今宵の闇に似ていた。
 少し肌寒い風は、夜の静けさを感じさせる。
 そうして、漆黒の闇の中、薄い三日月に照らされた互いの顔を合わせた。
(そうだ。俺はこいつと、ゆっくり話がしたかったのだ……)
「それ以外に理由が要るのか。ミザリ」
 随分と間が省略された言葉を、不器用に伝える。
 その顔の頬に僅かに朱が刺している事に、ミザリは気付けただろうか。
「そうだね! こんなときくらい、ルナン君もちゃんと休まなくちゃね」
 軽い口調でそう言いながらグラスを傾け、こく、と喉を鳴らした。
「? そうなるのか」
「そーだよ。もっとのーんびりしよ!」
 少し怪訝な表情をするルナンに、ミザリがいつもの笑顔でポンと言う。
「いっつもね、難しく考え過ぎなんだよ。ルナン君って普段からムリして強がってるでしょ」
 自覚は無いが、そうだっただろうか。
「俺が、無理を?」
「うん。私だって、頼ってくれていいんだよ! なに吐いてくれてもいいし、私で良ければ何でも聞くよ」
「……頼る、か」
 テーブルの上で手を組み、思案する。
 人を頼るなどと考えたことも無かったし、俺にはどうも分かりそうに無い。
 しかし、ミザリが俺を“心配”してくれていることだけは、俺にも分かった。
「何故お前は、俺にそこまで……」
 純粋な疑問だった。
 それを聞いたミザリは一旦きょとんとしてから、組んであるルナンの手を両手で包み込み、ルナンの目を見てにこっと笑った。
「だって、私はルナン君が好きなんだもん。とーぜんだよっ」
「なっ」
 どん、と胸を突かれた感覚。
 好き、という言葉と、包まれた手に感じるミザリ自身の体温が、身体に暖かく流れ込み、染み渡る。
「そっ……そうか」
 今の俺は一体どれほど腑抜けた顔をしていたことだろうか。
 先刻まで風を肌寒く感じていた肌が、急激に温度を上げる。
(……あつい)
 思わず右手を引き抜いて再び酒を煽ろうとしたが、すっかり一杯飲み終えて中身がカラだったのに気が付いたのはグラスを持ったあとだった。
「……むっ」
「ほらほら、そんなに慌てないで。はい、どーぞ」
 酒瓶を左手で持ち、俺のグラスに器用に注いでゆく。もう片方の手は未だに俺としっかり繋がれたまま。
 それがまるで恋仲そのものの構図であることに、若干の戸惑いを感じる。
 俺はいつもミザリに与えられてばかりで、己からは何もしてやれていない気がした。
「その……いつも、すまない」
「ルナン君?なんで謝るのっ」
 びっくりしてミザリが訊き返す。
 その顔を見て、ルナンは思い直した。
「悪い、言葉を間違えてしまったな」
 思わずふっと笑う。
 酒を一口飲んでからグラスを置き、そのままぼんやりと眩しい夜空を見上げた。
 今宵は月が綺麗だ。
 消え入りそうな、細い三日月。満月ほど明るくは無いが、その光は俺にはとても心地良かった。
「詰まるところ、俺は……お前が良い」
「え?」
 今宵くらいは、月の魔力とやらの力を借りて、口を開く。するりと言葉が漏れ出た。
「感謝しているぞ」
 そうだ。俺からも、一度くらいは正面から伝えたい。
 すっと月から目を外し、綺麗な夜の瞳を見て、言った。
「有り難う、ミザリ」
「うんっ!私も──」
 ぐいっと顔を引き寄せると、その声は宵闇へ静かに吸い込まれていった。
 お前が、好きだ。
 持てる限り、精一杯の思いを込めて、俺はミザリにキスをした。
 

 END(2014/07/20・〆)



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