DR+20



 降り積もった雪が、赤く染まっていた。
 剣戟音が響く村を少年は駆け抜ける。
 疲れ切って村外れの家へ帰ると、いつもの癖で少年は独り言ちた。
「ただいま! って……誰も居ないか」
 足早に急な梯子を上る。
 丸三年——世話になった屋根裏部屋が随分と手狭く見えた。
 肺が凍ったように冷たい。分厚い手袋を脱ぎ、黙々と荷物を詰めていたところに彼の姉が帰ってきて。
 ちいさな屋根裏で彼女は叫んだ。
「帝国を出るの!?」
 薄紅色のセミロングヘア。レモンイエローの瞳がまんまるになっている。
「そのつもり」
 少年はひとつ頷いた。
 彼の話は、聞く者からすればとんでもなく突飛なものだった。
「どうやって……まさか外国船に乗る?」
 ——明けの朝、東の港で。
 赤黒いフードから覗く口が告げた言葉。
 異国の旅人を名乗った人のその言葉を、少年はなんども反芻していた。
「あの人が言ってた。明日東の林から出る船に乗れば、このおかしな国から出られるんだって」
「何それ……あそこって港じゃなくて崖よ。低いかもしれないけど船なんて」
「ある。向こうの地図もくれた。あの人に付いて出てく」
「……あきれた。こないだ、共和国から来たっていうギルドの人の話ね」
 姉の心配そうな声が聞こえる。
「大丈夫なの……?」
 少年は黙った。
「外国って、今、危ないのよ。ただでさえ大戦中で治安も良くないし……今よりも怖い思いだって、するかもしれない」
 少年はやはり押し黙っていた。
 村で染み付いた血の匂いが、胸騒ぎをより酷くしていた。
 姉が問うた。
「もう明日なのよね。ひとりで出てくつもり?」
「……うるさいな……」
「シエ——」
「放っといてくれよ!」
 彼女が追って何か言おうとした言葉を彼は遮ってしまった。
「頼むからさぁ……!」
 寒さに喉がヒリついて痛い。
「シエル」
 呼ぶ声が落ちる。
 シエル。
 荒天の寒空に例えられたようなこの名が、好きじゃなかった。
 僕は僕が嫌いだ。
 僕は国外のことをきちんと知っているわけじゃない。けれど、危ないことが全くない場所なんて、どこにもない。そんなのは子どもでも分かることじゃないか。
「もう嫌だ。こんなところ、居たくもない」
 気が付けば、そう吐きだしていた。
 涙が滲んできた。軍人達の掛けてきた圧力、二度にもわたる村への襲撃、それらの記憶が脳裏に次々に蘇る。
 狂っている。今の場所に居たら死んでしまう。
 シエルは絶叫する。
「家族なんか嫌いだ……! 帝国なんか大っ嫌いだッ!!」
 側に寄り添う姉へではない、何か他の存在、世界に対して叩きつけるように。
 そんな少年の震える体を、彼女は、ぎゅっと抱きしめた。
「そうだね」
 強く強く抱き込んで、彼女が告げる。
 ——私も、怖いわ。
 小さなたった一言で、固結びになっていた何かが、呆気なくほどけた。
「だから、連れてってよ私もさ。置いてくなんて、間違っても言わないで」
 そう言った彼女の声も、震えていた。
 涙が頬を伝い、零れる。少年は何度も頷いた。 ごめん、ごめんよと、繰り返していた。
 ずっと、誰かにそう言って欲しかったのだ。
 ここは痛くて、冷たくて、怖いところだと。
 震える手で、そっと、彼女の温かい背に触れる。
「逃げよう。ふたりで」
「うん」
 
 
 
 ——……
 朝日が昇るより前に、二人は旅立った。
 最低限の荷物だけを背負って。
 軍隊は既に、村を通り過ぎた後のようだった。生まれ育った村の広場の方角を振り返る勇気は、少年にはなかった。
 分厚い雪を踏み締めて、町外れの非合法な船着場に着くと、赤黒いフードを被った人が言った。
「なんだふたりなのか。まぁいい」
 姉から白い吐息が漏れる。
「怪しまないのね、あなた」
 少々トゲのある言葉だったが、相手は意に介さないと言うように、首を振った。
「なに。私たちはしがない何でも屋、ひとりやふたり増えても、どうってことないさ」
 飄々とした雰囲気のフードの人物が、愉しげに笑う。
 姉は、相手を警戒しているようだが、ここは雪国だ。相手もそりゃあ防寒しているし、たとえ怪しんだとして自然と口数も少なくなる。
 シエルはそう考えて、フードの人影をじっと見上げる。
「いいんですか?」
 今更だが、シエルからも聞いておきたくなった。万が一にも断られたらどうしようか、と思ったが、
「良いよ。行く宛が無いならば、来い。お前たちを歓迎しよう」
 杞憂であった。
 目深なフードの下で、真っ赤な瞳が光る。
「じゃ、よろしく」
 相手が手袋をはめた右手を差し出した。
 シエルがおずおずと手を伸ばすと、握手して、大きく上下に振られる。それは、大人びた相手の雰囲気とは、合わない感じのする振る舞いだった。
 不思議な人だと、シエルは思った。
「そろそろ出発致します」
 船の奥の方から、女性の声が聞こえる。目の前の人物が踵を返した。
「行こうか」
 ちいさな漁村の片隅。
 密やかに港を発った貨物船は、朝焼けを映した海を確かに漕ぎ出していく。
 背の高い塔の立つ方へと、船は進む。向こうの大陸に立つ塔は、霧の上まで伸びていて、中央大陸同様どこまで続いているのかわからないほどだった。
 窓辺に添ったシエルは、ひとり拳を握りしめた。
 ——もう戻るまい。僕は僕の道を、前を向いて歩いていく。
 朝日が昇ってきた。
 鮮やかな藍紫色の空に、もう雪は降っていなかった。