夕刻の手紙


 
  

 降り積もった雪が、赤く染まっていた。
 剣戟音が響く村を少年は駆け抜ける。
 疲れ切って村外れの家へ帰ると、いつもの癖で少年は独り言ちた。
 
「ただいま! って……誰も居ないか」
 
 足早に急な梯子を上る。
 丸五年——世話になった屋根裏部屋が随分と手狭く見えた。
 肺が凍ったように冷たい。分厚い手袋を脱ぎ、黙々と荷物を詰めていたところに彼の姉が遅れて帰ってきて。
 ちいさな屋根裏で彼女は叫んだ。
 
「帝国を出るの!?」
 
 薄紅色のセミロングヘア。琥珀色の瞳がまんまるになっている。
 
「そのつもり」
 
 少年はひとつ頷いた。
 彼の話は、聞く者からすればとんでもなく突飛なものだった。
 
「どうやって……まさか外国船に乗る?」
 
 ——明けの朝、東の港で。
 
 赤黒いフードから覗く口が告げた言葉。
 異国の旅人を名乗った人のその言葉を、少年はなんども反すうしていた。
 
「あの人が言ってた。明日東の林から出る船に乗れば、このおかしな国から出られるんだって」
「何それ……あそこって港じゃなくて崖よ。低いかもしれないけど船なんて」
「ある。向こうの地図もくれた。あの人に付いて出てく」
「……あきれた。こないだ、共和国から来たっていうギルドの人の話ね」
 
 姉の心配そうな声が聞こえる。
 
「大丈夫なの……?」
 
 少年は黙った。
 
「外国って、今、危ないのよ。ただでさえ大戦中で治安も良くないし……今よりも怖い思いだって、するかもしれない」
 
 少年はやはり押し黙っていた。
 村で染み付いた血の匂いが、胸騒ぎをよりはげしくしていた。
 
「もう明日なのよね。ひとりで出てくつもり?」
「……うるさいな……」
「シエ——」
「放っておいてくれよ!!」
 
 彼女が続けて何か言おうとした言葉を彼は遮ってしまった。
 
「頼むからさぁ……!」
 
 寒さに喉がヒリついて痛い。
 
「シエル」
 
 呼ぶ声が落ちる。
 そう呼ばれると、なぜだか息が浅くなる。荒天の寒空に例えられたようなこの名が、僕は好きじゃなかった。
 ……外国の情勢がどうあれ、危ないのはこの帝国だって同じだろう。
 しかし、どう言い返していいのかも分からない。
 凍えた胸から、じんと冷えが這い上がってきた。
 
「もう、嫌だ。こんなところ、居たくもない……」
 
 公国の軍隊に攻め込まれて、村は破壊された。帝国の軍人は肝心なときに守ってくれない。僕が生まれ育った場所はもう、見る影もない。
 シエルは掠れた声で絶叫する。
 
「軍人なんか嫌いだ……! 帝国なんか大っ嫌いだッ!!」
 
 目の前の姉へではない、何か他の存在、世界に対して叩きつけるように。
 ふらり、と側に寄り添うひとつの影。
 少年の震える体を、彼女は、ぎゅっと抱きしめた。
 
「そうだね」
 
 強く強く抱き込んで、彼女が告げる。
 
 ——私も、怖いわ。
 
 小さなたった一言で、固結びになっていた何かが、呆気なくほどけた。
 
「だから、連れてってよ私もさ。置いてくなんて、間違っても言わないで」
 
 そう言った彼女の声も、震えていた。
 涙が頬を伝い、零れる。少年は何度も頷いた。 ごめん、ごめんよと、繰り返していた。
 
 ずっと、誰かにそう言って欲しかったのだ。ここは痛くて、冷たくて、怖いところだと。
 
 震える手で、そっと、彼女の温かい背に触れる。
 
「逃げよう。ふたりで」
「うん」
 
 
 
 ——……
 
 朝日が昇るより前に、二人は旅立った。
 最低限の荷物だけを背負って。
 軍隊は既に、村を通り過ぎた後のようだった。林の奥、村の広場があるほうを振り返る勇気は、少年にはなかった。
 
 分厚い雪を踏み締めて、非合法な船着場に着くと、赤黒いフードを被った人が言った。
 
「なんだ、ふたりなのか。まぁいい」
 
 姉から白い吐息が漏れる。
 
「怪しまないのね、あなた」
 
 少々トゲのある言葉だったが、相手は意に介さない様子で首を振った。
 
「なに。私たちはしがない何でも屋。ひとりやふたり増えても、どうってことないさ」
 
 飄々とした雰囲気のフードの人物が、愉しげに笑う。
 姉は、相手を警戒しているようだが、ここは雪国だ。相手もそりゃあ防寒しているし、たとえ怪しんだとして自然と口数も少なくなる。
 シエルはそう考えて、背の高い人影をじっと見上げる。
 
「いいんですか?」
 今更だが、シエルからも聞いておきたくなった。万が一にも断られたらどうしようか、と思ったが、
 
「いいよ。行く宛が無いならば、来い。お前たちを歓迎しよう」
 
 杞憂であった。
 目深にかぶったフードの下で、彼は笑みを浮かべる。
 
「じゃ、よろしく!」
 
 相手が手袋をはめた右手を差し出した。
 シエルがおずおずと手を伸ばすと、握手して、大きく上下に振られる。それは、大人びた相手の雰囲気とは、何となく合わない感じのする、フランクな振る舞いだった。
 不思議な人だと、シエルは思った。
 
「そろそろ出発致します」
 
 船の奥の方から、女性の声が聞こえる。目の前の人物が踵を返した。
 
「行こうか」
 
 ちいさな漁村の片隅。
 密やかに港を発った貨物船は、朝焼けを映した海を確かに漕ぎ出していく。
 背の高い塔の立つ方へと、船は進む。向こうの大陸に立つ塔は、霧の上まで伸びていて、中央大陸同様どこまで続いているのかわからないほどだった。
 
 窓辺に添ったシエルは、唇をかみ、拳を握りしめた。
 理由の見つけられない雫が、それでも、わずかに頬を伝った。
 
 
 ──逃げるんだ。とにかく、遠い場所まで……。
 
 
 朝日が昇ってきた。
 鮮やかな藍紫色の空に、もう雪は降っていなかった。
 

 





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