Prologue
降り積もった雪が、赤く染まっていた。
剣戟音が響く村を少年は駆け抜ける。
疲れ切って村外れの家へ帰ると、いつもの癖で少年は独り言ちた。
「ただいま! って……誰も居ないか」
足早に急な梯子を上る。
丸三年——世話になった屋根裏部屋が随分と手狭く見えた。
肺が凍ったように冷たい。分厚い手袋を脱ぎ、黙々と荷物を詰めていたところに彼の姉が帰ってきて。
ちいさな屋根裏で彼女は叫んだ。
「帝国を出るの!?」
薄紅色のセミロングヘア。レモンイエローの瞳がまんまるになっている。
「そのつもり」
少年はひとつ頷いた。
彼の話は、聞く者からすればとんでもなく突飛なものだった。
「どうやって……まさか外国船に乗る?」
——明けの朝、東の港で。
赤黒いフードから覗く口が告げた言葉。
異国の旅人を名乗った人のその言葉を、少年はなんども反芻していた。
「あの人が言ってた。明日東の林から出る船に乗れば、このおかしな国から出られるんだって」
「何それ……あそこって港じゃなくて崖よ。低いかもしれないけど船なんて」
「ある。向こうの地図もくれた。あの人に付いて出てく」
「……あきれた。こないだ、共和国から来たっていうギルドの人の話ね」
姉の心配そうな声が聞こえる。
「大丈夫なの……?」
少年は黙った。
「外国って、今、危ないのよ。ただでさえ大戦中で治安も良くないし……今よりも怖い思いだって、するかもしれない」
少年はやはり押し黙っていた。
村で染み付いた血の匂いが、胸騒ぎをより酷くしていた。
姉が問うた。
「もう明日なのよね。ひとりで出てくつもり?」
「……うるさいな……」
「シエ——」
「放っといてくれよ!」
彼女が追って何か言おうとした言葉を彼は遮ってしまった。
「頼むからさぁ……!」
寒さに喉がヒリついて痛い。
「シエル」
呼ぶ声が落ちる。
シエル。
荒天の寒空に例えられたようなこの名が、好きじゃなかった。
僕は僕が嫌いだ。
僕は国外のことをきちんと知っているわけじゃない。けれど、危ないことが全くない場所なんて、どこにもない。そんなのは子どもでも分かることじゃないか。
「もう嫌だ。こんなところ、居たくもない」
気が付けば、そう吐きだしていた。
涙が滲んできた。軍人達の掛けてきた圧力、二度にもわたる村への襲撃、それらの記憶が脳裏に次々に蘇る。
狂っている。今の場所に居たら死んでしまう。
シエルは絶叫する。
「家族なんか嫌いだ……! 帝国なんか大っ嫌いだッ!!」
側に寄り添う姉へではない、何か他の存在、世界に対して叩きつけるように。
そんな少年の震える体を、彼女は、ぎゅっと抱きしめた。
「そうだね」
強く強く抱き込んで、彼女が告げる。
——私も、怖いわ。
小さなたった一言で、固結びになっていた何かが、呆気なくほどけた。
「だから、連れてってよ私もさ。置いてくなんて、間違っても言わないで」
そう言った彼女の声も、震えていた。
涙が頬を伝い、零れる。少年は何度も頷いた。 ごめん、ごめんよと、繰り返していた。
ずっと、誰かにそう言って欲しかったのだ。
ここは痛くて、冷たくて、怖いところだと。
震える手で、そっと、彼女の温かい背に触れる。
「逃げよう。ふたりで」
「うん」
——……
朝日が昇るより前に、二人は旅立った。
最低限の荷物だけを背負って。
軍隊は既に、村を通り過ぎた後のようだった。生まれ育った村の広場の方角を振り返る勇気は、少年にはなかった。
分厚い雪を踏み締めて、町外れの非合法な船着場に着くと、赤黒いフードを被った人が言った。
「なんだふたりなのか。まぁいい」
姉から白い吐息が漏れる。
「怪しまないのね、あなた」
少々トゲのある言葉だったが、相手は意に介さないと言うように、首を振った。
「なに。私たちはしがない何でも屋、ひとりやふたり増えても、どうってことないさ」
飄々とした雰囲気のフードの人物が、愉しげに笑う。
姉は、相手を警戒しているようだが、ここは雪国だ。相手もそりゃあ防寒しているし、たとえ怪しんだとして自然と口数も少なくなる。
シエルはそう考えて、フードの人影をじっと見上げる。
「いいんですか?」
今更だが、シエルからも聞いておきたくなった。万が一にも断られたらどうしようか、と思ったが、
「良いよ。行く宛が無いならば、来い。お前たちを歓迎しよう」
杞憂であった。
目深なフードの下で、真っ赤な瞳が光る。
「じゃ、よろしく」
相手が手袋をはめた右手を差し出した。
シエルがおずおずと手を伸ばすと、握手して、大きく上下に振られる。それは、大人びた相手の雰囲気とは、合わない感じのする振る舞いだった。
不思議な人だと、シエルは思った。
「そろそろ出発致します」
船の奥の方から、女性の声が聞こえる。目の前の人物が踵を返した。
「行こうか」
ちいさな漁村の片隅。
密やかに港を発った貨物船は、朝焼けを映した海を確かに漕ぎ出していく。
背の高い塔の立つ方へと、船は進む。向こうの大陸に立つ塔は、霧の上まで伸びていて、中央大陸同様どこまで続いているのかわからないほどだった。
窓辺に添ったシエルは、ひとり拳を握りしめた。
——もう戻るまい。僕は僕の道を、前を向いて歩いていく。
朝日が昇ってきた。
鮮やかな藍紫色の空に、もう雪は降っていなかった。