夕刻の手紙


 
  

 奈落へ落ちてゆく。
 意識が、急速に暗闇へ吸い込まれていく。
 ぼふっと埋もれたそこは、冷たくて、じわじわと溶けるような感触をもたらす。
 その感覚は、少年にとって馴染みあるものだった。
 
『死ナナカッタノカ──悪運ノ強ェガキガ』
「……あなたは……」
 
 見上げた先。真っ黒な双眼の中に金の光を宿した瞳が、僕を見ていた。
 煉瓦造りの家屋、その二階の影に立つ人影──銀髪金眼の、かつて、見知らぬ男性だった人。僕を襲った、あの人。
 
「ハデス=レラ」
『覚エてたカ。そりゃァ、ウレシイナ』
 
 頭上の曇天から、粉雪が舞っている。
 夏の共和国に、雪など降るはずがない。
 ここは帝国だ。つまり夢。あの日以来の、悪夢だ。
 
「僕は、嬉しくないですけど……」
 
 手をついて起き上がりながら、シエルは呟いた。
 目下の雪が痛く冷たく感じる。相変わらず、いやにリアルな悪夢だ。
 
『一丁前な台詞ダナ』
「……そりゃあもう大人なので。僕。わかりますよ」
 
 夢だって。
 言外にそう言ったつもりだったが、男の返事は、さらに違った方向から飛んできた。
 
『親ニ虐待受ケテ、ベソベソ泣イてたオマエがカ?』
 背中に当たる声。奴は、背後にいる。
 少年はギョッとして振り返った。
 
「──……!」
 
 そこには、父と母の姿があった。
 シエルそっくりの柔らかな茶色い髪に、なめらかな輪郭。どこにでも居そうな姿形の夫婦であったが、その顔は、真っ黒に塗りつぶされていた。
 黒いモヤのかかったような両親の口から、どす黒い言葉が落ちてくる。
 
『この出来損ない……!!』
『救いようのない、頭の悪い子だ。こんなもの学ばせる価値もない』
『そうよ! おまえが、おまえが全て悪い! 誰かの代わりに、おまえが死ねばよかったのよ!!』
 
 シエルは息を呑み、それを、一気に吐き出した。
 
【〈十字眼ディスティア〉──具現せよ!】
 
 両親の影を叩き切った。
 黒霧を残して消える、その姿。
 手が〈煌力レラ〉の粒子にバチバチと触れて、痛い。媒介となる武器なしで発動したのは初めてだ。翡翠色の刀身は、研ぎ澄ました刃物のように鋭利な代物だった。
 鋭利な刃の痛みは、少年の心を深く刺した。
 
 父さん。母さん。
 僕はただ、あなたたちに抱きしめて欲しかった。“この世界が怖い”と泣いた僕を抱きしめて、ただ、頷いて欲しかった。
 僕の願いをついぞ叶えたのは、実の親ではなく、メアリであったけれど……。
 
 今更、あの人たちにどうこう言うつもりはない。両親はもう、戦争で命を落としている。死んだ人間に心はない──誰に聞かずとも、明白な事実だ。
 もしこの悪夢がトラウマの再演にでもなると思っているのなら、この変な男は、まったくひどい奴だ。
 
「ハデス。二度とこんな真似しないでください」
 
 今の僕には帰るべき場所がある。〈結社〉というかけがえのない居場所が。
 過去の怨念に囚われるようなことはしない。
 目の前に、銀髪の男が立っていた。シエルの静かな怒りのこもった視線を受け、男はなおも不気味な笑みを深めた。
 
『子どもを助けて、いい気になったつもりカヨ』
 
 その一言で、シエルは悟った。
 〈公国遠征〉の出来事を──この男は見ていた。いや、知っていた。この男の笑みは、公国の兵士たちが〈従隷エグリマ〉をいたぶるときのそれに、そっくりだ。
 少年は翡翠の刃を握りしめた。
 
「うん……。だって、僕は〈逃亡者〉だ。昔の僕のような『逃げられない』境遇の人は、出来る限り、助けてあげたい」
『クク……仮物のソレで英雄気取りカ! オマエのチカラは、すべて俺のチカラだ!!』
「それはどうかなッ!」
『────!』
 
 大きくふりかぶり、男に斬り掛かる。
 これが悪夢であるなら、この男を制すれば目が覚めると思った。──が、刃は男に触れる寸前で光の粒子に還り、あっけなく消滅してしまった。まるで、最初から存在していなかったかのように。
 動揺した少年は、なおも慟哭した。
 
「じゃあ、ひとつ聞かせてくれよ!」
 
 ハデスは少年を見下ろした。ただ、静かに。
 黒い白目の中に光る瞳で、シエルを見た。
 
「僕はあなたが好きじゃない。だけど、あなたは僕に力をくれてるね。なんでだ? ハデスのメリットはなんだ!?」
『シンプル。力はニンゲンを支配するノニ最適だ』
「僕は支配なんてしたくない……」
『ソノ割ニ、オマエは同じニンゲンを殺した』
「……それは……!」
 
 シエルの金の瞳に焦りが浮かぶ。
 公国の若い青髪兵士、アークス兵長のことが脳裏を過ぎった。
 
「仲間が殺されかけたんだ……! メアリだって危ない目に遭って、怒らないほうがおかしいじゃないか!!」
『オマエには、“自分”が無い』
「……!!」

 咄嗟に言い返せなかった。
 臆病な僕は、常に自分を隠してきた。信念なんて大層なものは持っていない。
 
 結社のボスは、言った。『強き者になれ』と。
 メアリは、僕を守るため、細い指で剣を取った。
 ロネ先輩は、命を賭して子どもを救おうとした。
 
 それに比べて、僕はどうだ。
 いつだってみんなの背中を追うばかりで、誰かに守られてばかりで……。そして、ある種の自分勝手で、ついには人を殺めてしまった。
 
 黒い影が渦巻いた──目の前。誰よりも信用できない“自身”の姿が、そこにはあった。
 
『俺はオマエ自身だ、シエル。強大なチカラ、そのモノだ』
 
 

 ──違う。僕は僕だ! 
 僕は逃げて、逃げて、生き延びて、いつか〈結社〉のみんなみたいに、誰かを守れる、強い人になりたい……!!
 
 
 
 ────……
 ──……

 意識が急速に浮上する。
 ベッドに横たわる少年は、何度か瞬きを繰り返した。
 ちいさなワンルームで、窓の明かりだけが眩しい。
 
 ベッドの脇に腰掛けて見れば、壁掛けの煌力時計レラオクロックは、十七の刻を指している。確か、今日は休日だ。昼過ぎくらいから、僕はいつの間にか寝てしまっていたみたいだった。
 
 レースカーテン越しから漏れ出るオレンジ色の光。今、窓の外にはきっと、いつの日か見たような夕間暮れが広がっているのだろう。
 外を見る気にはなれなかった。今、綺麗な空を見たら、泣いてしまいそうな気がして。
 シエルは代わりに、自分の手元に視線を落とした。
 色白の両手。最後に夢の中で、この手を伸ばした気がする。頼りなくて、ちっぽけな己の手を、シエルはそっと重ね、額に当てた。
 まるで祈るように。
 少年は他でもない自分自身と、約束する。
 
「僕は……強くなるんだ。必ず」
 
 走り続けよう。
 この手が他の誰かのもとに届く、その日まで。
 
 
 
– The First Vol. END (2025/06/11. サイト版)