Monologue
“第35話 罪”
奈落へ落ちてゆく。
意識が、急速に暗闇へ吸い込まれていく。
ぼふっと埋もれたそこは、冷たくて、じわじわと溶けるような感触をもたらす。
その感覚は、少年にとって馴染みあるものだった。
「…………」
頭上の曇天から、粉雪が舞い落ちている。
“なにか”がおかしい。
直感がそう告げる。ここは首都ズネアータではない。見渡す限りの雪原と、点在する石造りの寂れた家屋。眼鏡越しの景色は、どこか歪んで見えた。
雪に手をつき、体を起こす。掌に伝わる冷たさが、鋭い痛みとなって返ってきた。
「……おい」
背後から声がした。
不意を突かれ、少年は息を呑んで振り返る。耳の奥に引っかかる、聞き覚えのある声。
青い髪。青い瞳。
海の底を思わせる、底知れない青がこちらを見ていた。
「あ……アークス……!?」
公国の若い青髪兵士、アークス兵長。
彼はそこに立っていた。
かつて外国で邂逅したときと寸分違わぬ、銀の鎧姿のままで。
『ついぞ死ねなかったのか、愚図め』
「どうして……」
頬に触れた粉雪が、じわりと溶ける。
彼の言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが噛み合った。夏の外国に、雪など降るはずがない──つまり、これは夢。いつの日か以来の、悪夢だ。
悪夢の中の敵は、苛立たしげに青髪を掻きむしっている。
『イカれたブラックギルドの害獣どめ……』
『あの結社の灰色の番犬も、エルフの女も、どいつもこいつも、死ねばよかったんだ』
『〈従隷〉もだ。待てすらも満足にできない、家畜の分際で……!』
男の連ねた言葉で、〈公国遠征〉の記憶が一気に蘇る。
傷だらけの子どもたち。地に伏し、血を流すロネの姿。今にも泣き出しそうなメアリの横顔。
シエルは息を呑み、一気に吐き出した。
【〈十字眼〉──具現せよ!】
翡翠の光の刃を振るう。
これが悪夢であるなら、この男を制すれば目が覚めると思った。──が、刃は男に触れる寸前で光の粒子に還り、あっけなく消滅してしまった。まるで、最初から存在していなかったかのように。
男は黒々とした瞳で、じっと少年を見据えた。
『オマエはヒトゴロシだ』
「違う!」
叫びは雪原に吸い込まれる。
少年は動揺しながら、なおも慟哭した。
「お前のやったことは、許されないことだ──〈罪のない子どもたち〉を虐げて……! 僕の仲間だって殺されかけたんだ! 怒らないほうがおかしいじゃないか!!」
男は見下ろすだけだった。ただ、不気味なほど静かに。
蒼く光る瞳で、シエルを見た。
『他人の甘い正義に乗っかりたいだけだろ? 君は』
「……それは……!」
シエルの瞳に焦りが浮かぶ。
臆病な自分は、常に自分を隠して生きてきた。正義だなんて大層なものは、持っていない。
結社のボスは、言った。『強き者になれ』と。
メアリは、僕を守るため、細い指で剣を取った。
ロネ先輩は、命を賭して子どもを救おうとした。
それに比べて、僕はどうだ。
いつだってみんなの背中を追うばかりで、誰かに守られてばかりで……。そして、ある種の自分勝手で、ついには人を殺めてしまった。
『傲慢な、ヒトゴロシだ──』
──違う。違うんだ、僕は……。逃げて、逃げて、生き延びて。いつか〈結社〉のみんなみたいに……。
「僕は……強く、なれるのかな…………」
弱音が、零れ落ちる。
青髪兵士の影が歪み、渦を巻いた。──目の前。誰よりも信用できない自分の姿が、そこにはあった。
黒いモヤを纏った“僕”が口を開いた。
『ナニモノにもなれやしないよ。けっきょく、いつまでも弱虫なんだから』
泣いてるとも、笑ってるとも取れない悲鳴のような声色で。
もうひとりの“僕”はそう、吐き捨てた。
────……
──……
……
意識が急速に浮上する。
ベッドに横たわる少年は、何度か瞬きを繰り返した。
ちいさなワンルームで、窓の明かりだけが眩しい。
ベッドの脇に腰掛けて見れば、壁掛けの煌力時計は、十七の刻を指している。確か、今日は休日だ。昼過ぎくらいから、いつの間にか寝てしまっていたみたいだった。
レースカーテン越しから漏れ出るオレンジ色の光。今、窓の外にはきっと、いつの日か見たような夕間暮れが広がっているのだろう。
外を見る気にはなれなかった。今、綺麗な空を見たら、泣いてしまいそうな気がして。
シエルは代わりに、自分の手元に視線を落とした。
色白の両手。頼りなくて、ちっぽけな己の手を、シエルはそっと重ね、額に当てた。
まるで祈るように。
他でもない自分自身と、約束する。
「僕は……強く、強くなるんだ。かならず」
走り続けよう。
この手が他の誰かのもとに届く、その日まで。
花冷えの逃亡者 – The First Vol. 〈上巻〉完 (2025/06/11.サイト版→ 12/19.改稿)