夕刻の手紙


 
  

 奈落へ落ちてゆく。
 意識が、急速に暗闇へ吸い込まれていく。
 ぼふっと埋もれたそこは、冷たくて、じわじわと溶けるような感触をもたらす。
 その感覚は、少年にとって馴染みあるものだった。
 
「…………」
 
 頭上の曇天から、粉雪が舞い落ちている。
 “なにか”がおかしい。
 直感がそう告げる。ここは首都ズネアータではない。見渡す限りの雪原と、点在する石造りの寂れた家屋。眼鏡越しの景色は、どこか歪んで見えた。
 雪に手をつき、体を起こす。掌に伝わる冷たさが、鋭い痛みとなって返ってきた。
 
「……おい」
 
 背後から声がした。
 不意を突かれ、少年は息を呑んで振り返る。耳の奥に引っかかる、聞き覚えのある声。
 青い髪。青い瞳。
 海の底を思わせる、底知れない青がこちらを見ていた。
 
「あ……アークス……!?」
 
 公国の若い青髪兵士、アークス兵長。
 彼はそこに立っていた。
 かつて外国で邂逅したときと寸分違わぬ、銀の鎧姿のままで。
 
『ついぞ死ねなかったのか、愚図め』
「どうして……」
 
 頬に触れた粉雪が、じわりと溶ける。
 彼の言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが噛み合った。夏の外国に、雪など降るはずがない──つまり、これは夢。いつの日か以来の、悪夢だ。
 悪夢の中の敵は、苛立たしげに青髪を掻きむしっている。
 
『イカれたブラックギルドの害獣どめ……』
『あの結社の灰色の番犬も、エルフの女も、どいつもこいつも、死ねばよかったんだ』
『〈従隷エグリマ〉もだ。待てすらも満足にできない、家畜の分際で……!』
 
 男の連ねた言葉で、〈公国遠征〉の記憶が一気に蘇る。
 傷だらけの子どもたち。地に伏し、血を流すロネの姿。今にも泣き出しそうなメアリの横顔。
 シエルは息を呑み、一気に吐き出した。
 
【〈十字眼ディスティア〉──具現せよ!】
 
 翡翠の光の刃を振るう。
 これが悪夢であるなら、この男を制すれば目が覚めると思った。──が、刃は男に触れる寸前で光の粒子に還り、あっけなく消滅してしまった。まるで、最初から存在していなかったかのように。
 男は黒々とした瞳で、じっと少年を見据えた。
 
『オマエはヒトゴロシだ』
「違う!」
 
 叫びは雪原に吸い込まれる。
 少年は動揺しながら、なおも慟哭した。
 
「お前のやったことは、許されないことだ──〈罪のない子どもたちエグリマ〉を虐げて……! 僕の仲間だって殺されかけたんだ! 怒らないほうがおかしいじゃないか!!」
 
 男は見下ろすだけだった。ただ、不気味なほど静かに。
 蒼く光る瞳で、シエルを見た。
 
『他人の甘い正義に乗っかりたいだけだろ? 君は』
「……それは……!」
 
 シエルの瞳に焦りが浮かぶ。
 臆病な自分は、常に自分を隠して生きてきた。正義だなんて大層なものは、持っていない。
 
 結社のボスは、言った。『強き者になれ』と。
 メアリは、僕を守るため、細い指で剣を取った。
 ロネ先輩は、命を賭して子どもを救おうとした。
 
 それに比べて、僕はどうだ。
 いつだってみんなの背中を追うばかりで、誰かに守られてばかりで……。そして、ある種の自分勝手で、ついには人を殺めてしまった。
 
『傲慢な、ヒトゴロシだ──』
 
 ──違う。違うんだ、僕は……。逃げて、逃げて、生き延びて。いつか〈結社〉のみんなみたいに……。
 
「僕は……強く、なれるのかな…………」
 
 弱音が、零れ落ちる。
 青髪兵士の影が歪み、渦を巻いた。──目の前。誰よりも信用できない自分の姿が、そこにはあった。
 黒いモヤを纏った“僕”が口を開いた。
 
『ナニモノにもなれやしないよ。けっきょく、いつまでも弱虫なんだから』
 
 泣いてるとも、笑ってるとも取れない悲鳴のような声色で。
 もうひとりの“僕”はそう、吐き捨てた。
 
 
 ────……
 ──……
 ……
 
 
 意識が急速に浮上する。
 ベッドに横たわる少年は、何度か瞬きを繰り返した。
 ちいさなワンルームで、窓の明かりだけが眩しい。
 
 ベッドの脇に腰掛けて見れば、壁掛けの煌力時計レラオクロックは、十七の刻を指している。確か、今日は休日だ。昼過ぎくらいから、いつの間にか寝てしまっていたみたいだった。
 
 レースカーテン越しから漏れ出るオレンジ色の光。今、窓の外にはきっと、いつの日か見たような夕間暮れが広がっているのだろう。
 外を見る気にはなれなかった。今、綺麗な空を見たら、泣いてしまいそうな気がして。
 
 シエルは代わりに、自分の手元に視線を落とした。
 色白の両手。頼りなくて、ちっぽけな己の手を、シエルはそっと重ね、額に当てた。
 まるで祈るように。
 他でもない自分自身と、約束する。
 
「僕は……強く、強くなるんだ。かならず」
 
 走り続けよう。
 この手が他の誰かのもとに届く、その日まで。
 
 
 
花冷えの逃亡者 – The First Vol. 〈上巻〉完 (2025/06/11.サイト版→ 12/19.改稿)
 

 





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