Monologue
“第35話 再演”
奈落へ落ちてゆく。
意識が、急速に暗闇へ吸い込まれていく。
ぼふっと埋もれたそこは、冷たくて、じわじわと溶けるような感触をもたらす。
その感覚は、少年にとって馴染みあるものだった。
『死ナナカッタノカ──悪運ノ強ェガキガ』
「……あなたは……」
見上げた先。真っ黒な双眼の中に金の光を宿した瞳が、僕を見ていた。
煉瓦造りの家屋、その二階の影に立つ人影──銀髪金眼の、かつて、見知らぬ男性だった人。僕を襲った、あの人。
「ハデス=レラ」
『覚エてたカ。そりゃァ、ウレシイナ』
頭上の曇天から、粉雪が舞っている。
夏の共和国に、雪など降るはずがない。
ここは帝国だ。つまり夢。あの日以来の、悪夢だ。
「僕は、嬉しくないですけど……」
手をついて起き上がりながら、シエルは呟いた。
目下の雪が痛く冷たく感じる。相変わらず、いやにリアルな悪夢だ。
『一丁前な台詞ダナ』
「……そりゃあもう大人なので。僕。わかりますよ」
夢だって。
言外にそう言ったつもりだったが、男の返事は、さらに違った方向から飛んできた。
『親ニ虐待受ケテ、ベソベソ泣イてたオマエがカ?』
背中に当たる声。奴は、背後にいる。
少年はギョッとして振り返った。
「──……!」
そこには、父と母の姿があった。
シエルそっくりの柔らかな茶色い髪に、なめらかな輪郭。どこにでも居そうな姿形の夫婦であったが、その顔は、真っ黒に塗りつぶされていた。
黒いモヤのかかったような両親の口から、どす黒い言葉が落ちてくる。
『この出来損ない……!!』
『救いようのない、頭の悪い子だ。こんなもの学ばせる価値もない』
『そうよ! おまえが、おまえが全て悪い! 誰かの代わりに、おまえが死ねばよかったのよ!!』
シエルは息を呑み、それを、一気に吐き出した。
【〈十字眼〉──具現せよ!】
両親の影を叩き切った。
黒霧を残して消える、その姿。
手が〈煌力〉の粒子にバチバチと触れて、痛い。媒介となる武器なしで発動したのは初めてだ。翡翠色の刀身は、研ぎ澄ました刃物のように鋭利な代物だった。
鋭利な刃の痛みは、少年の心を深く刺した。
父さん。母さん。
僕はただ、あなたたちに抱きしめて欲しかった。“この世界が怖い”と泣いた僕を抱きしめて、ただ、頷いて欲しかった。
僕の願いをついぞ叶えたのは、実の親ではなく、メアリであったけれど……。
今更、あの人たちにどうこう言うつもりはない。両親はもう、戦争で命を落としている。死んだ人間に心はない──誰に聞かずとも、明白な事実だ。
もしこの悪夢がトラウマの再演にでもなると思っているのなら、この変な男は、まったくひどい奴だ。
「ハデス。二度とこんな真似しないでください」
今の僕には帰るべき場所がある。〈結社〉というかけがえのない居場所が。
過去の怨念に囚われるようなことはしない。
目の前に、銀髪の男が立っていた。シエルの静かな怒りのこもった視線を受け、男はなおも不気味な笑みを深めた。
『子どもを助けて、いい気になったつもりカヨ』
その一言で、シエルは悟った。
〈公国遠征〉の出来事を──この男は見ていた。いや、知っていた。この男の笑みは、公国の兵士たちが〈従隷〉をいたぶるときのそれに、そっくりだ。
少年は翡翠の刃を握りしめた。
「うん……。だって、僕は〈逃亡者〉だ。昔の僕のような『逃げられない』境遇の人は、出来る限り、助けてあげたい」
『クク……仮物のソレで英雄気取りカ! オマエのチカラは、すべて俺のチカラだ!!』
「それはどうかなッ!」
『────!』
大きくふりかぶり、男に斬り掛かる。
これが悪夢であるなら、この男を制すれば目が覚めると思った。──が、刃は男に触れる寸前で光の粒子に還り、あっけなく消滅してしまった。まるで、最初から存在していなかったかのように。
動揺した少年は、なおも慟哭した。
「じゃあ、ひとつ聞かせてくれよ!」
ハデスは少年を見下ろした。ただ、静かに。
黒い白目の中に光る瞳で、シエルを見た。
「僕はあなたが好きじゃない。だけど、あなたは僕に力をくれてるね。なんでだ? ハデスのメリットはなんだ!?」
『シンプル。力はニンゲンを支配するノニ最適だ』
「僕は支配なんてしたくない……」
『ソノ割ニ、オマエは同じニンゲンを殺した』
「……それは……!」
シエルの金の瞳に焦りが浮かぶ。
公国の若い青髪兵士、アークス兵長のことが脳裏を過ぎった。
「仲間が殺されかけたんだ……! メアリだって危ない目に遭って、怒らないほうがおかしいじゃないか!!」
『オマエには、“自分”が無い』
「……!!」
咄嗟に言い返せなかった。
臆病な僕は、常に自分を隠してきた。信念なんて大層なものは持っていない。
結社のボスは、言った。『強き者になれ』と。
メアリは、僕を守るため、細い指で剣を取った。
ロネ先輩は、命を賭して子どもを救おうとした。
それに比べて、僕はどうだ。
いつだってみんなの背中を追うばかりで、誰かに守られてばかりで……。そして、ある種の自分勝手で、ついには人を殺めてしまった。
黒い影が渦巻いた──目の前。誰よりも信用できない“自身”の姿が、そこにはあった。
『俺はオマエ自身だ、シエル。強大なチカラ、そのモノだ』
──違う。僕は僕だ!
僕は逃げて、逃げて、生き延びて、いつか〈結社〉のみんなみたいに、誰かを守れる、強い人になりたい……!!
────……
──……
意識が急速に浮上する。
ベッドに横たわる少年は、何度か瞬きを繰り返した。
ちいさなワンルームで、窓の明かりだけが眩しい。
ベッドの脇に腰掛けて見れば、壁掛けの煌力時計は、十七の刻を指している。確か、今日は休日だ。昼過ぎくらいから、僕はいつの間にか寝てしまっていたみたいだった。
レースカーテン越しから漏れ出るオレンジ色の光。今、窓の外にはきっと、いつの日か見たような夕間暮れが広がっているのだろう。
外を見る気にはなれなかった。今、綺麗な空を見たら、泣いてしまいそうな気がして。
シエルは代わりに、自分の手元に視線を落とした。
色白の両手。最後に夢の中で、この手を伸ばした気がする。頼りなくて、ちっぽけな己の手を、シエルはそっと重ね、額に当てた。
まるで祈るように。
少年は他でもない自分自身と、約束する。
「僕は……強くなるんだ。必ず」
走り続けよう。
この手が他の誰かのもとに届く、その日まで。
– The First Vol. END (2025/06/11. サイト版)