五章『あの日の戦争』
“第51話 あの日の話を”
────……
──……
夜になると、戦場は別の顔を見せる。
前線基地に設けられた仮設テントの中、淡い灯りを囲んで人が集まっていた。ランタンの中の小さな炎が揺れ、影は伸び縮みを繰り返す。昼に見た光景が、ふとした拍子に影の中から浮かび上がってきそうで、青年は無意識に背を強張らせた。
嘘をついた痛みはすぐには癒えなかった。シエルはあの後、ボスに言いそびれたことを、真っ先にレイミールとファクターに報告した。
〈与えられた偽名を使ったこと〉。おそらく他の結社の面々にも遅かれ早かれ伝わるだろう。
ロネは野営の見張り組にいて、直接伝えることができなかった。先輩にこそ聞いてほしいと思ったが、現実はそううまく運ばない。
長かった一日を終えた今、シエルの傷んだ心は、ボスの言葉に占拠されていた。
──君の姉が殺されていたとしても……。
──君は、ひとつ。重大な思い違いをしている。
──誰かがやらねば。
相変わらず、強い言葉たち。
それらを何度も思い起こし、反すうしているうち、シエルの心にはひとつのくっきりとした仮説が浮かび上がってきていた。
……彼女は、誰かを傷つけたがる人ではない。むしろ、救いたくて、守りたくて、ここまでやってきた人だ。
行き場のない僕を救ってくれたのは、彼女だ。
ガルニア帝国軍が戦うさなかに手を出したのも、彼女だ。それもまた、〈従隷〉の子どもたちを守るためだった。〈孤児院〉を運営しているのも……。
彼女はなにか大きな悲しみの連鎖をとめたくて、戦場にいる。
それほどまでに強い願いが、彼女には明確にある。そう、思えてならない。
「どうして、ボスは、あんなに……」
理由が聞きたかった。……だけどそれは、聞いてはいけないことのような気がした。
誰に宛てたわけでもないシエルのつぶやきに、隣に座るファクターが答えた。
「言いたいことは、わかる。軍の意向を反故にしてまで、やることではないわな」
ファクターはシエルの言葉を、ボスの無茶な行動に対してだと解釈したらしい。シエルは慌てて首を振った。
「違うんです! 人を助けるのに、迷いがなくて。むしろすごく、強い人だなって……」
レイミールがくすり、と笑う。品よく座っている膝で、分厚い本を開いている。
「ボスは若いころ、旅をしていたのよ。そのころからなの、あの“悪癖”はね……」
彼女は目線をシエルに向けて、目元をかすかに細めた。
「そ、そうなんですか」
「そう。確か、ちょうど今のあなたくらいの歳頃だったかしら。賑やかで、突拍子もない女の子だったわ」
「……なんか想像つかないです」
ボスにも、そんな時代が……。
うーん、と考え込む様子のシエルに結社幹部の女は静かに語りかけた。
「誰でも若い頃はそんなものよ。“うちのファクター”にだって、若い頃はあったんだから」
メアリが彼女をじっと見る。
奥の木製の折り畳み椅子に座る金髪の女性と、その隣の白髪男性の顔を、交互に見て、訊いた。
「……レイさん。もしかして……、好きな人が居たりする?」
シエルは(なんで?)と思ったが、女の勘というものであろうか。
レイミールは一拍置いて、頷いた。
「ええ。居るわ。今も隣に」
「…………」
黙りこくるファクター。
心なしか照れているようにも見える。メアリが一気に嬉しそうな顔になる。
「きゃ〜そうだったの!? ファクターさんも、はやく教えてちょうだいよ〜」
「マァ……訊かれなかったのでな」
「ねぇ、よかったら聞かせて! みんなが若いときのはなし!」
「……昔話か……」
言いながら懐を探り、葉巻が一本とマッチ箱を取り出した。
レイミールが彼を軽くとがめる。
「アナタ……、吸うならテントの外にして?」
「そうする」
言って、彼はふらっと外に出ていった。
メアリがくちびるを尖らせる。
「もーっ。なにも、こんなときに葉巻吸わなくたって……」
「昔から、照れ屋さんなのよ。……元々、彼は、学者を目指していてね、『生まれつき魔煌が使えない体質に生まれたから、いつかそれを補完する道具を作りたい』と言っていたわ」
「魔煌が使えない……!?」
「そうよ? いつも爆薬や銃なんかを使っているでしょう。多分、当時からの名残でしょうね」
「へえ……」
メアリが、興味津々という目で彼女を見る。
「ふたりの馴れ初めは? どこで出会ったの?」
「うふふ……駆け落ちだったのよ?」
「ぃやー!」「えぇッ」
各々の叫び声が響く。悲鳴に近かった。
恋愛小説でしか見たことのないような世界。それがレイミールのような身近な人の口から聞けるとは、夢にも思わなかった。
「テスフェニア公国に居たころ。貴族の会合でわたくしと出会って……。将来有望な学者、と言われていたあの人から、お茶に誘われたときは、驚いたわ。たいそう驚いたし……なによりそのあと、周りの方に猛反対されてね。『わたくしのお金が目当てだ』とか、『平民なんかと一緒じゃ駄目だ』って……」
青年は首を傾げる。
「公国貴族として、会合に出ていた、ってことですか?」
「令嬢ですもの。もともと」
シエルとメアリは、ポカンとしてしまった。
ふたりの頭には、公国の貴族と言うと、威圧感のあるヴェルス大公や、皇子たち、そして彼らに付き従う悪い兵士たちのイメージしかない。
「北のサラリア家の貴族令嬢。婚約者が居たけれど……その男は〈従隷〉制度の保存派だったから嫌いだって話をしたら、ファクターは無理して公国から連れ出してくれたわ。下水道を伝ってね──大変だったけれど、今じゃいい思い出よ」
「そう、だったのね……。色々あったのね。でも、望んだ人と結ばれたなら、よかった」
ほっとしたようにメアリはそういった。レイミールが“普通の貴族”からは少し外れた考え方だったからこそ、彼女は今こうして自分たちの味方でいてくれている。
シエルが聞き直した。
「あの……、ボスの若い頃の話も、ぜひ聞きたいです!」
「そうね……」
彼女は少し遠くを見ているみたいな目で、とつとつと語ってくれた。
「わたくしどもはね。共和国に亡命したあと、旅をしている彼女に出会ったの。聞いたら『家がない』って言うんだから、これまた驚いたわ。……一緒にエクという男性がいて……当時、三十代くらいかしら? ギルドをやっていたのよ。〈恒久の不死鳥〉の名前で」
「今と同じ名前!」
レイミールはちらっと青年たちを見て、そして、また視線を外した。
「だけどある日、追っ手が現れたわ。けれどわたくしどもの追っ手ではなかった。エクの追っ手だった……。エクは、わたくしと同じ公国の出自で……彼は〈従隷〉として逃げ出してきたんですって。そして──」
言葉が一度途切れる。ひどく、寂しそうな横顔だった。
「公国の軍は、その国境の村を滅ぼしたわ。この〈ミラス〉みたいに……」
レイミールの話に、メアリは苦虫を噛み締めるような面持ちになった。
「……帝国がやっているようなことは、公国もやってる。だから〈結社〉も、こうして戦ってるのよね?」
「ええ。あの頃からね。共和軍の代わりに、自衛団の真似事をするようになって……〈結社〉と呼ばれ出したのは」
かすかに頷いて、彼女は言う。
「あの子がまだ〈結社のボス〉じゃなかったときの話は、これでおしまい。今ではもうむかしの話ね」
シエルが、顔を上げた。
「そのときは、ボスは、なんて呼ばれてたんですか?」
「……あら……」
「ボスには、“名前がない”んですよね? ……」
レイミールは、苦笑を浮かべた。
「アナタは、聡い子ね。……それは、言えないわ。わたくしの口からは、とても」
「と、いうのは、つまり……」
言い方的に、べつの名前がある、ということになる。
だが、彼女は初めて会ったときから『名前がない』と言っていた。
秘書はどこか後めたい表情で語った。
「あの子には、名前がないんじゃないのよ。ただ──名前を失ってしまったの」
「失った? ……」
巨大な衝撃がシエルの胸をついた。かつてボスの言ってくれた言葉が、シエルの耳の奥によみがえる。
──シエル。……いい名だ。大切にするといい。
胸の底から熱いものが込み上げた。あんなに僕の名前を大切に呼んでくれたのに、彼女には、それがない。
名前を失うというのは……、どれほどのことだろう?
周りも覚えているのなら、それはもう名乗ることができない名前、と考えるのが妥当であろう。追われていたのだろうか、果たして。
「そんなのはおかしいです! あんなに強くて優しい人が、どうして……」
肺が熱く震える。声が震える。涙が出てきそうになるのを必死にこらえる。
「一体、何があったら……」
「大丈夫?」
レイミールは、そっと、青年の背中に手を当てた。
「この世界には、守りたいから言葉にできないことも、たくさんあるわ」
(それにしても、“優しい”だなんて……あの子が聞いたら、きっと喜ぶでしょうね)
苦労が報われるとは、このことだろう。
彼女──ボスの優しさは、決して人に伝わりやすい類のものではない。
わかりづらくて、遠回しで、だけども人の幸せを最大限に考えて行動するのが、彼女の唯一無二の在り方だ。
「そういう、ものですか……?」
「ええ。少なくともわたくしはそう思うわ」
彼女はほほえんだ。
「さ、分かったら、明日に備えてしっかり休むのよ」
青年を見送る意図で声をかける。
しかし、青年は俯いたまま動かなかった。
「……レイさん」
組んだ両手にギュッと力を込める。
信じたい、疑いたい、いろんな気持ちがないまぜの声が滑り出た。
「もし、この戦いが終わったら、どう、なるのでしょうか?」
「そうね……いつかのボスのお言葉を借りるなら」
レイミールは、いつもより低い声音で言った。
「“戦い抜けば、すべてが大きく変わる。よい変化か、悪い変化か……やってみなければ、なにも変えられない。”……だそうよ」
青年は悟る。
〈結社〉の人々は、何かを変えたくて、この新しい道を切り拓いて来た。
僕自身もまた、自分を変えたくて、ここまでその道のりを歩いて来た。
ならば……戦わなければならない。巨大な渦に呑まれた人間は、もがいて前に進みつづけるほかに、道は残されていないのだから。
ランタンの灯火が揺らめいた。
芯のすり減った炎が、小さく爆ぜながらテントの中を照らし続けていた。
五章 完 (2026/01/31 〆 )