夕刻の手紙


五章『あの日の戦争』


 
  

 
 晴れた夕暮れ空の下、しかし野原を吹き抜ける風は重たく湿っていた。
 東方から吹きつける潮気が、前線の空気を錆びのようにざらつかせている。
 
「……!」
 シエルは馬車の小窓から見える景色に、目を見開いた。
 わずかに開けた窓の奥の景色。ヒューバル山脈の麓近くは公国の国土だが、そこには帝国軍の陣地が並んでいた。鉄板と木材で組まれた野戦基地は、いかにも仮設といった趣であった。
 
 シエルたち〈結社〉の馬車が門をくぐった瞬間、黒地に赤いラインの入った軍服を着た兵士たちがざわめき、視線が集中した。共和国の馬車。そしてギルドの制服のカラフルな装いは、この場では異質だ。
 馬車を停めて降りると、その奇異の視線はより一層強まった。
 
「……やな感じ」
 メアリの小さなつぶやきが、冷たい風に溶けていく。
 シエルも同じ気持ちだった。
 故郷とはいえ、ガルニア帝国軍は謎が多く、幼い頃から遠い存在だった。信頼という言葉とは縁遠い。
 
 草地にヒールの音が落ちる。
 結社のボスが、部下の声に応えて軽く笑む。
 
「大丈夫だよ。味方だからね」
 
 その言葉は、帝国軍がというよりは、ボス自身が身の安全を保証するような響きを伴っている。
 
 かすかなざわめきの中、ひとりの帝国軍人が歩み寄ってくる。
 漆黒の軍服が、夕刻の影の中で重たい威圧感を放っている。斜陽を受けその人間の表情が露わとなった。
 赤黒い肌に跳ね回った黒い髪。うっそりと細まった猫目の特徴的な男だった。
 
「お待ちしておりました、〈恒久の不死鳥エタネル・フェニックス〉のみなさま」
「これはタンシー少佐、久しいな」
 ボスがニコリと目を細める。
 猫目の男は手袋をはめた手で基地の奥を示した。
 
「立ち話もなんです、こちらへ……。ご案内いたします」
 
 
 ────……
 ──……
 タンシーと呼ばれた帝国軍人は、無駄口のひとつも叩かず、基地内に案内した。
 天幕の奥。大柄な男が、鎮座していた。
 
「来おったか、ギルド長」
 低く、どこか芝居がかった声。男の左腕には、赤い腕章。
 帝国軍元帥、カーマイン・ギースその人だった。
 
「ギース殿。すまない、遅くなってしまった」
 ボスの声を受け、男は首肯した。
「遠い遠い旅路をご苦労。もう日も沈むでな、基地でよう休むといい」
「助かる。だが──」
 
 かすかな風に天幕が揺れる。部屋の端ではカタカタと〈煌力時計レラオクロック〉の音が鳴っている。
 ボスは基地内を赤い目で見渡してから、言葉を継いだ。
 
「夜までまだ時間がある。今後の動きを聞いておきたい」
「ほう」
「今であれば、〈結社〉の主力もほぼ全員揃っている。どうだろうか?」
 ボスは帝国軍のふたりを見た。
 
「どうします? 今日でなくてもよいかとは思われますが……」
 タンシーが少し視線をそらし、どこか難色を含んだ顔をする。彼はどちらかというと否定派のようだ。元帥の「よかろう」のひとことを受け、少佐は手をひと振りして他の兵たちを下げた。
 テントの中、大きな机の上でランタンの灯りが灯る。オレンジ色の炎が机を照らし、いくつかの文書と〈世界地図〉の輪郭が浮かんでいた。
 
「〈従軍延途じゅうぐんえんと〉は、冬のつき十日、実行する」
「十日……」
 
 シエルは息をのむ。
 ……来週だ。思っていた以上に早い。
 ギースが続けた。
 
「貴様らの立てた〈連合軍〉としての合同作戦。ウチでも議論はしたが、大きく変わらず採用よ。抜け目の少ない案じゃと、マァマァの評判じゃったぞ」
「それはよかった! 結社には公国の地理を知る者がいるのでね」
 ボスはレイミールに視線を送る。
「光栄ですわ」
 秘書は微笑んだ。
 ギースが太い指で地図の一点を叩きながら言う。
 
「とは言っても、すぐに都に攻め込むわけではない。その前に防衛基地を潰す必要があるな」
「ここからならば、百ケルト*約百キロメートル近くは距離がありますものね」
「おう。奴らの基地までは何十と遠ない。補給も兼ねた基地じゃ、こちらに気付かれる前に潰しちゃる」
「なるほど……。都に攻め込むのもやりやすくなる、というわけかい」
 ギースは仰々しく頷いた。
 
「都に向けては、夜動く」
「夜か」
「夜襲じゃよ。この作戦、陽動に乗じた潜入が要じゃ。表に出るわしらが、連中に目にモノ見せるほどに効果があるじゃろう」
 
 ボスはふと顔を上げた。目を何度か瞬かせる。
「……おや、まさか。ギース殿も前線に立たれるのか」
 黒髪女の、いかにも意外そうなその声音。
 壮年の男は眉間にしわを寄せた。
 
「なんじゃ、手下を眺めとるだけの公国の阿呆どもとわしは違うでな。暴れな、やってられんわい!」
「これは、失敬。正直驚いたよ、“元帥”というくらいだ。私はてっきり、司令塔とばかり……」
 ボスの言葉を聞いたシエルが、ぽつりとつぶやく。
 
「──帝国の“猛将ギース”。かつて、そう呼ばれたお方ですからね。そうでしょう、と思います」
「そりゃ〈大戦〉前からの呼び名じゃ。共和国の若いのにしては、よぅ知っておるな」
「いえいえ、有名な異名ですし……」
 若い青年の言葉に機嫌をよくしたのか、男は豪胆に笑った。
 
「ガハハハ!! 物分りもよか。ええぞ、要は貴様らが出張るときではない、ちゅうことじゃ。のう、タンシー」
「左様でございます。〈結社〉のみなさまに置かれましては、『手出し不要』ということだけ伝わっていれば大丈夫ですよ」
「長い長い茶番など、見せてやらん。せいぜい林の影から、黙って見とれ。出る幕も無く制圧も有り得るな!」
 
 ──ですので……今宵は、ゆっくりとお休みください。

 タンシー少佐の丁寧な言葉と裏腹に、夜の会議はきっぱりと打ち切られてしまった。
 ギース元帥の見送りを受け、隣の仮設施設に移動する最中。
 最後尾を歩いていた男から舌打ちが落ちた。
 
「ンだ、あの野郎。舐めやがって」
 
 ロネだ。
 まさか帝国軍基地の真ん中でそれを言うとは……とシエルは思いつつ、注意深く周囲の軍人の様子を探ってから、小声で返す。
 
「いえ。あの人は……たぶん、違いますよ」
「違う? ナニが」
 
 柔らかな青年は眼鏡の奥の瞳を細めた。
 
「戦の味方を嘲るだけの人では、ないです。ただ、作戦成功のためなら、なんでもする……。そういう軍人なんです」
 
 
 
 ────……
 ──……
 
 
 朝の平原は、まだ冷たい。
 なだらかな丘の輪郭の向こう、今日は黒鉄の鎧をまとった帝国の軍勢が、ゆっくりと動く。
 
 ──ついに、最前線までやってきた。
 
 謎多き〈ガルニア帝国軍〉という存在。そして、彼らと手を組み〈従軍延途じゅうぐんえんと〉に挑むこの冬。
 結社のボスも関わっている以上、参加は義務である。
 これは、シエル自身にとって、あるイミ宿命とも呼べる戦いの幕開けだった。
 
 その重さを噛み締めるように、青年はひとつ大きく息をして、静かに戦場に視線をみつめていた。
 
 
 
 - Next comming soon!!
 (2025/11/19・ひっそり更新)
 





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