夕刻の手紙


五章『あの日の戦争』


 
  

 
 ────……
 ──……
 首都〈ズネアータ〉の灯りは夜遅くまで消えることがない。
 街の大通りには灯りが規則正しく並び、高層の建物や広場を柔らかく照らし出している。上空から眺めれば、まるで地上にもうひとつ星空が広がっているようだった。
 そのことから、観光客からはもっぱら〈夜の街〉と呼ばれている。
 
 ベランダの手すりにもたれ、ひとりの青年が息を吐いた。
 
「はぁ……」
 
 シエルの吐いた白い息が、夜気に紛れて消える。
 昼間の孤児院での遊び疲れがまだ残っていた。小さな子どもたちと走り回り、砂まみれになって笑った日の余韻。……ロネには「ジジィかよ」と笑われ、ファクターには「意外と早熟だったな」とからかわれた。
 思い出して、くすりと笑う。
 ──あぁ。こうして笑える今が、少し、好きになっている自分がいる。
 
 不意に、カララ、と大きな窓が開く音がして、そちらを見やる。
 アパートの隣の部屋から出てきた人物。白いナイトキャップを被った女性が、月光の下に現れる。
 
「メアリ?」
 夜の明かりを受けて輝く薄い琥珀色の瞳が、ぱちぱちと瞬いた。
 
「シエル。こんな時間に、外にいるの?」
 ……それはメアリもじゃないか。
 思いながらも、返す。
 
「……眠れなくて」
「そう、よね」
 つっかけたサンダルの足音が響く。
 ベランダを隔てたふたりの距離。夜風が、その間をやさしく吹き抜けていく。
 
「って、何食べてるのよ」
「マシュマロ……」
「お菓子、そんなに気に入ったのね」
 以前、先輩に教えてもらったお菓子を頬張るシエル。
 
「多分、こんなの〈帝国むこう〉じゃ手に入らないよ。それか、もっと高値なんだろうな」
 
 〈鉱山地区ロジュガ〉行きの馬車の中で、初めて食べたお菓子の味。
 あの頃は、〈逃亡者ベグレーツ〉だということもまだみんなに明かせていなくて。
 そんな中で結社のボスも、ロネ先輩も優しくしてくれて、嬉しかったこと……シエルにはよい思い出となっている。
 
「思い出した。僕さ、メアリに聞きたいことがあったんだけど……」
 シエルは羽織っていた結社のロングコートから、一枚の紙を取り出した。
 
「この、身……身分証例のやつさ、〈ディオル・カラーン〉って書いてある。叔父さんの名前、だよね?」
「ええ……、そうなの。知らない名前だったら、急に言えないでしょ? だからボスさんにそう伝えたの」
 
 なるほど、と相槌を返す。
 しかし、まさか帝国軍とお近づきになろうとする日が来るとは……。
 一年くらい前の自分なら、きっと有り得ないって青ざめるんだろうな。と思いながら。
 
「そっちはなんて名前にしたの?」
「〈フィリア・ミルメルト〉」
「あ、幼馴染の名前か」
「そうそう。呼び慣れてるから」
「ふうん」
 
 白いお菓子をぽいと口に放り込む。
 ──姉にもあげようか。でも、ちょっと距離があるし、渡しにくそうだな。
 そんなことを考えていると、今度はメアリが口を開いた。
 
「ねえ、シエル。将来の夢ってある?」
「夢かぁ」
 シエルは夜景を見渡す。ズネアータの何気ない街並みを。
 
「僕さ、共和国こっちに来て思ったことがあるんだ」
「あら、どんなこと?」
「村を出たときのこと、メアリは覚えてる?」
 
 青年の問いかけに、かわいい姉はいたずらっぽく笑った。
 
「もちろん! だってシエルものすごく落ち込んでたんだもの。放っておいて〜だなんて!」
「それは……ごめん……」
 いいわよ、と笑う姉は、あの頃と変わらず優しいと思う。
 シエルは幼く拙かった自分自身を恥じつつ、過去に想いを馳せた。
 
「僕さ、あのときは、〈帝国向こう〉を出たら、それがゴールだと思ってたんだ。怖い場所からは逃げて、これからは、自分の思うように生きるんだって」
 
 青年は自身の手のひらを見た。
 かつてより幾分か大きくなって見える手を、握りしめる。
 
「実際は違った……。外に出たら、また怖いものに囲まれるんだ。共和国の港も、結社も、大きすぎて怖かった。ボスも、ロネ先輩だって、あのときは本気で怖かったし……」
 
 忙しない毎日に流されて、虚空に消えかけていた言葉が、口から次々に零れ落ちる。
 
鉱山地区ロジュガの現場もそうだった……公国の都だって……」
 
 今宵、見上げた共和国の空には、きれいな三日月が輝いていた。
 
「思ったんだ。一度逃げることを選んだら、そのあと──別のどこかでは、正面から戦わなきゃいけないんじゃないかって」
 
 そう言ったあと、シエルは小さく息を吐いた。
 忘れたくないものがある。守りたいものがある。
 その数々の記憶や想いが、今の自分をひとりの人間にしてくれているような気がしていた。
 
「だから今、戦ってるのね」
「……そうかもしれない」
 
 メアリの声は、まるで祈りのように切なくて、柔らかかった。
 
「〈従隷エグリマ〉の子どもたちを見たとき……許せなかった。戦おう、助けたい、って思った」
 
 戦った結果は、苦いものだった。僕は前途ある人を殺めた。奪った命の感覚は、嫌悪とも、後悔とも呼べない味だった。
 ──だけどその先で、ユートくんは嬉しそうに笑ってた。温かい木漏れ日の下で過ごしていた。
 それ以上いらない。そう思った。
 
「僕、強くなって、みんなを助けたいんだ。いつか、この〈大戦〉が終わったら……、みんながもっと安心して暮らせるようになったらいいな、って思うんだ」
 
 メアリはしばらく何も言わず、弟の横顔を見つめていた。
 月明かりに照らされたその横顔は、もう幼さよりも青年らしさのほうが強く感じられる。
 
「……立派になったわね」
「いや……」
「さすがは私の弟だわ」
「やめてよ」
 小さく首を振る。本当は泣きそうだったから。
 よく分からない涙を堪えながら、シエルは照れ隠しに言葉を返した。
 
「そう言うメアリは?」
「えっ」
「ないの? 夢」
「あ、あるわよ!」
「……どんな?」
「笑わないでよ? ……あのね。私、花が好きだから……」
 口ごもったメアリにシエルが問い直す。
 
「育てるの?」
「かわいい花を育てて、たくさんの人とそれを共有したいの。──花屋さんってこと!」
「花屋さん!! いいね! メアリにピッタリだ」
 シエルの声が少し弾む。
 メアリはそんな弟の相槌を受けて、意味ありげに微笑んだ。
 
「そ? じゃ、叶えてもらわなくちゃあね!」
「僕?」
「そうよ。みーんな、平和に暮らせるようにしてくれるんでしょ?」
「うーん……。そうなったらいいなぁ」
「結社の目的ともそっくりだし。それがシエルの夢なら、私、応援するわ」
「そっか」
 
 姉の言葉を噛みしめるシエル。
 胸の奥に、確かな温もりが宿る。
 ……夢も、優しい家族も、こんな時間も。すべて、得難いものだと思った。
 
「ありがとう」
 
 ふたりは並んで夜空を見上げた。
 細い月が雲の切れ間から顔を出し、星々が街の灯りの向こうでかすかに瞬いている。
 
「……戦って、ここに帰ってこよう」
「えぇ。約束ね」
 
 メアリの声は小さくて、街の夜風に溶けて消えていった。
 街の片隅、小さなアパートのベランダ越し。互いに交わした言葉は、ふたりの胸にあたたかく息づいていた。
 
 
      ◆
 
 
 ──作戦当日。
 まだ陽が昇りきらない首都〈ズネアータ〉の西門前には、馬車の群れが並んでいた。
 そこで、結社メンバーたちが、見送りに集まった人々の輪に囲まれている。
 
「シエルくん、みんな、本当に気をつけてねぇ……!」
「物資に野菜や果物を贈っておいたから。道中食べるといい」
「ソフィーさん。ゲラルトさんも。ありがとうございます。気をつけます」
 南町農家のふたりと久しぶりに対面し、シエルはその手を両手で握って応えた。まるで後生の別れのようで、胸の奥でこみ上げる寂しさを押し殺しながら、青年は頭を下げる。
 少し離れたところから、ロネの大きな声が聞こえた。
 
「だから来ンなよ! 残れ! めんどくせェな!」
「来るわ今度かて! 俺らダチやろぉ!?」
「ダチで仲間だろぉ? ロネ坊!」
 ついでに、男たちの声も聞こえる。ルドルフとヴェルダムだろう。
 シエルには、もう顔を見なくてもわかってしまう。こんな賑やかな人、そう居るものではない。明るい笑いが周囲に伝染している。
 続いて、ハッピーな響きのアルトの声がした。
 
「そうだぁー! ダチみんなで〜、行くぞぉっ!」
「なンでクソチビまで居ンだ!?」
 ロネのツッコミが冴え渡っている。そこには茶髪のボブヘアに帽子を被った少女、カレサの姿もあった。皆一様に、リュックや車輪付きの大荷物を抱えている。
 ボスは額に手をやり、軽くため息をついた。
 
「……今回ばかりは、振り切れなくてね」
「あんたな──そういう問題かよ!」
 指を突きつけるロネの姿が、誰よりも必死でちょっと笑ってしまう。
 その輪のそばでは、見知った人々が次々に声をかけてくる。
 
 新聞記者・パメラ。
「みなさま、よい知らせを期待しています!」
 首都の商人・コルト。
「またお菓子とか雑貨買いにこいよ? 兄ちゃんたち!」
 その声音や笑顔すらも、シエルにはたまらなく懐かしかった。
 
「……みなさん……」
 返そうとして、うまく言葉が続かなかった。
 胸の奥がじんと熱くなる。
 この場所に、自分たちを待ってくれる人がいる──その事実がたまらなくシエルの心を締め付けた。
 
「シエル……!」
「え」
 背後から名前を呼ぶ声。
 振り返ると、陽光のなかに立つちいさな少年の姿があった。
 赤みがかった白髪と、柔らかい褐色の耳。ユートだった。
 孤児院の庭で見せた、あの、少し控えめな笑顔のままで。
 
「みんな……! ぼく、〈ブルー・バード〉で、まってるから!」
 
 幼くも力のこもった少年のエールに、一同は力強く頷く。
 もう、後戻りはできない。
 ボスが一歩前に出る。朝の風が赤黒いマントをはためかせた。
 
「これより一部隊として前線に赴く! 結社・〈恒久の不死鳥エタネル・フェニックス〉、ゆくぞ!」
「おぉ──!!」
 重なった声が朝霧の空へと昇った。
 馬車に揺られて。見送る人々の姿が、次第に小さくなっていく。
 それぞれの想いを胸に、結社一同は公国の地を目指した。
 

 





Category & Tag :