夕刻の手紙


五章『あの日の戦争』


 
  

 ──ボスSide.──
 
 大戦の地に赴くまで、約一週間を切った頃。
 結社の執務室を抜け出し、ボスが足を運んだのは、孤児院〈ブルー・バード〉だった。
 目的は仕事ではない。ほんのひととき、息をつくための逃避行。同時に、自身の運営する場所の視察も兼ねる。
 
 昼下がりの孤児院の中庭は、柔らかな日差しに満ちていた。木々の葉を抜けてきた光がまだら模様を地面に落とし、そこを駆け抜ける小さな人々。
 
「まてーっ!」
「やーだよ! こっちだよー!」
 どうやら、追いかけっこらしい。小さな足が砂を巻き上げ、影たちが地面を忙しなく横切っていく。
 ふと、その中に見覚えのある人影を視認した。
 
「あれは……」
 中でも飛び抜けて背の高い、茶色と朱色。そして黒髪。
 ひとりは孤児院の院長であるサナリだ。
 ほかの者は。
 
「シエル! そっち行ったよー!」
「くッ……! ちょ、あぁっ!」
 子どもたちと遊ぶシエルとメアリの姿が、そこにはあった。
 まだ小さな少年が、追手役であるシエルの足の間をスライディングで逃げていく。将来有望である。
 
「……遊ぶのって、こんなに、大変だったのか……」
 シエルは膝に手をつき、息を切らした。
 幼年の子どもの体力は底知れない。例え若い青年であろうとも、すぐに翻弄されてしまうだろう。
 
「まてぇーっ!!」
 また追いかけるべく青年が走り出すと、少年少女が蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
 ボスは木陰のベンチに腰を下ろし、しばし黙って彼らの遊ぶ姿を見ていた。
 無邪気な子どもたちの笑顔。駆ける足取りは羽のように軽く、ただそれだけで、世界のすべてを手にしているかのようだ。彼らの笑顔を目にすると、日々の中で張り詰めた緊張の糸が、ふっと緩むのを感じた。
 
 ──あの頃は、私もああして走っていただろうか。
 思考が不意に遠い昔を探ろうとする。だが、すぐに自嘲の笑みを浮かべて振り払った。
 
「ボスさん? お久しぶりですね」
 孤児院の院長・サナリが気づき、そっと抜け出して、声をかけてくる。
 
「お仕事の合間ですか」
「……うん。そんなところだ」
 ボスは短く返すと、再び子どもたちに視線を戻した。
 きゃあー! と黄色い声をあげて逃げる少女の背中に、青年が一駆けで追いついて、軽く触れる。
 
「タッチ!」
「えー! 狙うのずるーい! たっちたっち、返す!」
「ずるくはないよ!?」
 やはり青年の足の速さは、子どもからは異質に見えるのだろう。彼は急に責められて、また少女が叫んで逃げる。
 
「くっ……! じゃあ次は、ゆっくり目に……」
 意識的に柔く蹴った地面がぬるりと凹んで、シエルが膝から転んでしまった。
 
「痛ッ……!」
「……おにーちゃん! だいじょうぶー!?」
 すぐに他の人影が駆け寄り、手で泥を払おうとする。救急セット持ってこないと、とサナリが慌てふためいていて、室内に戻っていく。
 
「ッたく……相変わらず、世話ねーな」
 近くから声がした。孤児院の廊下から、ロネが顔を出していた。
 
「おや、ロネ。居たのか」
「……ボス」
 廊下側からは、丁度死角に居たらしい。ベンチに座っているこちらを見て驚いたように目を開くと、ロネは深いため息をついた。
 
「あんた、この間、倒れてたって聞いたぞ。こンなトコで油売ってねェで、たまにはちゃんと休めよ」
 
 その言葉に、ボスはほんのわずか苦笑を浮かべる。
 大戦の長期不在を事前に穴埋めすべく、溜まりに溜まった書類を捌き続けた四徹明け──あの日のことは、幹部以外には知られていない、はずだった。けれどいつの間にやら、部下たちにも伝わってしまったらしい。
 
「おや。だから今こうして、休んでいるんじゃないか」
「クソ……、そうかよ」
 吐き捨てるようなロネの声に、かえって胸の奥が温かくなる。彼なりに私の身を案じているのだろう。本当に頼もしく、そして優しくなった。そう思う。
 
「……ぼ、ボス……?」
 小さな声が耳に届いた。
 振り返ると、褐色肌の少年が立っていた。
 短めに切り揃えられた白髪。深い色の肌色に、自身にも似た赤い瞳。
 
「君は……ユートか?」
「…………ん」
 こくんと頷く少年。公国から連れ帰った頃は痩せ細っていた子だが、今ではすっかり健康的な顔色を取り戻し、背丈も伸びている。
 
「ほんのちょっと見ないうちに、随分大きくなったな!」
「……それほどでも」
 どこで覚えたのか、子どもらしからぬ気取った言い回し。だがすぐにロネの背後に隠れる姿が愛らしくて、ボスは思わず笑ってしまう。
 
「あはは! すっかり、懐かれたみたいだね?」
「オレはフツーに接してるだけだ」
 軽口の応酬。
 そのとき、ロネの後ろから、ユートがぽつりと口にした。
 
「みんな、また、公国に行くって……ほんと?」
 
 小さな少年の不安げな言葉に、ボスはゆっくりと頷いた。
 
「大丈夫、ひとつきもすれば帰ってくるよ」
 
 自分が口にすると、その言葉は途方もなくもろい嘘のようにも響いた。
 約束というよりは、祈り。希望的な観測にすがるような言葉だった。
 
「ボスは、怖くないの?」
 真正面から投げかけられた問いに答える。
「怖いよ」
「怖いのに……行く?」
「ほんとうに怖いのは、痛いことや、辛いことじゃないんだよ。為すべきことを成せないことだ」
「……?」
 ユートは、分からない、というように首を傾げる。
 
「君にとって私はきっと、親に近いよね? 親は子を守るものなんだ。これは、わかるか?」
「……“親”……?」
「ロネが親でもいいけどさ?」
「……兄ちゃんは、兄ちゃんだ」
「兄なんだ、素敵だね。よかったね! ロネも」
「茶化すンじゃねェよ」
 ロネが少しだけ視線を逸らした。その呆れたふうな横顔が、どこか照れくさそうにも見える。
 
「じゃあボスは、お母さん?」
 なんとなく、答えに窮した。けれど、すぐに穏やかに笑う。
「どうだろう。君がそう思うなら、母であろう」
「……そか……」
 ユートは困り眉で少し俯く。
 ロネが尋ねた。
 
「なあボス。あんたの親って、どんな人だったンだ」
「どうしたんだい? 突然」
「いや、今まで聞いたことねェから」
 
 短い沈黙ののち、ボスは空を見上げた。
 雲の合間から光が差す。眩しくて、少し目を細める。
 
「実の父や母の顔は、知らない」
「は……」
 ロネは絶句した。
 
「……実はね。拾ってもらったんだ。寒い日の森の中──捨子だった私は、まだ名もしらぬ男の手で息を吹き返した」
 その声は静かだったが、確かな温度を帯びていた。
「あたたかい人だった」
 ボスは微笑む。
「だからね、君たちと一緒だよ」
 その言葉に、ユートの顔がみるみる明るくなった。ユートが飛びつく。
 
「お母さん!」
「おっとと……ふふ……」
 小さな体をそっと抱きとめた。
 その腕の中に確かな命の重みがある。
 
「……オレは“家族”を失いたくねェ。戦うにゃコレ以上ねえ理由だろ?」
 ロネの声が低く響いた。
 ボスはその言葉に、ゆっくりと頷く。
 
「ユート。そんなワケなんだ。君はここで、今の日々を過ごしていておくれ。私たちが帰る場所に迷わないように」
「…………」
 小さな頭が押し付けられる。
 そのぬくもりを感じながら、ボスは黙って背を撫でてやった。
 やがて上げた少年の顔。目には大粒の涙を溜めて、けれども彼は微笑んでいた。
 
「……まってる」
 
 ボスはその頭を優しく撫でる。
 指先に伝わる体温、紛れもない現実の証だ。
 この命の温もりを守るためなら、どんな戦場でも行けると思った。
 
 〈孤児院ブルー・バード〉の木漏れ日の下で。
 
 庭先で転んだ青年もまた、その小さな家族の姿を、じっと見つめていた。
  

 





Category & Tag :