五章『あの日の戦争』
“第45話 ボスの頼み”
華やかなパーティ会場の隅から、紅いドレスの女性が出ていく姿が見えた。
上背が高い女性。真っ黒いロングヘア──間違いなく、壇上で見た“結社のボス”その人だ。
シエルは急いで彼女のあとを追いかけた。靴音が硬い床に反響し、会場のざわめきが一気に遠のいていく。
「──ボス、待ってください!」
若い青年の声が、白く長い廊下に響いた。まだ少年の響きを残しながらも、低く捻り出されたその声には、焦燥と怒りが入り混じっている。
もう一度、息を吸い込み、彼女を呼ぶ。
「ボス!!」
紅いドレスの背中がゆっくりと止まる。振り返ったボスの表情は、鋭くもどこか空虚なものだった。
「シエル……なぜ追いかけてくるんだ? 君が」
「なぜも何もないです!」
青年は大きな声で叫んだ。自分でも抑えきれない感情が、胸を突き破らんとする。
今日この場で浴びせられた情報──帝国軍がいる意味。
〈大戦〉の裏側に、あなたはどこまで関わっているのか。
ひととおり考え続け、頭の中で渦巻かせていた疑念が、今になって怒りへと形を変えていく。
シエルは低く唸るような声音で、最大の問いをぶつけた。
「僕は、僕らは……〈逃亡者〉だ。なのに、帝国軍と連合を組むなんて……聞いてません」
──帝国軍は、追手を放つ立場そのものと言っていい。手を組むなんて言われたら、二度と日の目を浴びられないかもしれない。せめてその危険くらい、分かってほしい。
「やはりか。その話なら、すでに手を打ってあるよ……そうだろう?」
大仰なまでの威圧感とともに、彼女がシエルの背後へ視線を送る。
は、として振り返ると、そこには最も身近な人物が立っていた。
「……メアリ!?」
他でもない。姉だった。
足音はしていた。だけども、まだ少し遠い場所から、彼女はこちらを見ていた。
急いで走ってきたのだろう。メアリは息を少し乱しながら、青いドレスのスカートをつまんで、弟を見つめていた。紅潮した頬と乱れた髪が、どれほどの急いでここまで来たかを物語っている。
「会場から出ていくのが、見えて……来ちゃった」
「別に、来なくていいのに」
「ふたりとも、出ていくんだもの……。追いかけるわよ、そりゃ」
虫のいどころが悪く、つい冷たく答えたシエルに対し、メアリは胸の奥にしまってきた心配を隠しきれずに弟を見つめ続ける。
シエルはその視線すらも振り切るように、ボスに対して言葉を紡いだ。
「ボス。今、すでに手を打ってある、って……?」
彼の問いに応えたのは、メアリだった。
「それも、私から言うわ。……ううん。むしろ、渡すの遅くなって、ごめんね」
メアリの言葉に、ボスがわずかに目を細める。
朱髪少女は数歩歩くと、クラッチバッグから二枚の小さなファイルを取り出した。
震える手で、そっと、差し伸べる。
「あの、ね。実はこれ、作ってもらったの。必要でしょって話になって──」
シエルの眼鏡の奥の瞳が揺らぐ。
「これは──身分証?」
メアリは逆に目を逸らす。
渡しづらい物だ。
いや、より正確に言えば……メアリにとっては、永遠に渡したくなかった物だった。
──メアリSide.──
物言わぬ半月が、ある夜の結社のロビーを柔らかく照らしていた。
広い空間の中で、ただひとつ、窓際のカウンター席だけがぽつんと温もりを帯びている。
先日、声をかけられたのだ。結社のボスから。
──夜に時間を作れ、と。
残った書類整理のついで、との理由を伝えられ、メアリは結社のボスと邂逅を果たしていた。
「待ちくたびれたよ。メアリ」
見れば黒髪ワンピースの女が、背もたれに片肘をかけて座っていた。──ボスが私服姿で、髪を下ろしている姿を見るのは、メアリにとって珍しい。
「時間通りでしょ?」
壁掛けの針は、二十の刻を指す。多くの食卓は夕食の最中か、あるいは食事を食べ終えようかという時刻。
書類整理と聞いているから、早めに自炊を済ませていた、けれど。
「少し付き合え」
黒髪の女が、呼び寄せる。その左手には飴色の美しいボトルが握られている。
朱髪少女は小首を傾げた。
「……書類は?」
「話をしよう、ということだよ」
「話」
困惑の感情を抱え立っていると、ボスはさらに誘いの言葉を紡いだ。
「君も、もう大人だろう?」
「そうだけど……。話だけなら、お酒がなくたって出来るわ」
「私は出来ない」
そのひと言に、メアリは目を見開いた。
──口を開けば演説か指示ばかりのこの人が、酒なしでは話せないなどと。
あまりに人間くさい弱さだ。
「……そう……、なら少しだけね」
半ば呆れながらも、メアリは彼女の隣に腰を下ろす。
ボトルを傾ける音が、夜の静けさにやけに大きく響いた。静寂に耐えかね、先に口を開いたのはメアリだった。
「そういえば、ボスさん。前の件だけど……」
ロックグラスに注がれた金色の酒。それよりは、目の前の彼女の真っ赤な瞳に視線を移しながら、言う。
「君もしつこいな」
秋の押し問答のことを思い出したのだろう。ボスはどことなく嫌そうな苦笑を浮かべ、グラスを掲げる。
本来なら、“乾杯”とでも言いたいところだったが、メアリは無言でグラスを持って押し付けた。
今の発言を、聞き捨てならなかったからだ。
「しつこくないわ! お・れ・い。前に、家までお手紙届けて下さったのは、あなたでしょう?」
「……あぁ、そのことか」
キン、とちいさく鳴らしたグラスの中身を互いにひとくち、含む。
さっきから、なぜだか少し怒りっぽい口調になってしまう。まるでよくある恋愛小説の、喧嘩別れした元恋人みたい。場違いにもそんな感想が浮かんでくる。
メアリは努めて優しいトーンで彼女に返した。
「──ありがとう。……父の遺言を知れて、よかった」
〈結社〉の名義宛に届いていた、帝国からの手紙。
こちらの名前は伏せられていたし、多くの部分は検閲で黒塗りにされていた。もしも彼女が家のポストに届けなければ、受け取ることができなかった文だ。
「手紙には、なんと?」
「あら。読んでいないの?」
「最初の一文だけ確認して、戻したよ」
短く返す声色には嘘も打算もない。
メアリはやや辛口の酒を口に含みながら、春の終わりに読んだ手紙の最初の一文を思い出す。
──すでにこの世には居ない。
当時の自分にとっては最悪な報せだったけれど、胸に刻まれた言葉は今も鮮やかに蘇る。
「……父は、弟のことを見てやって仲よくねって。日々鍛錬は怠らず、体に気をつけろ、とかって……そんなことばかり、書いていたわ」
胸の奥からじんわりと熱があふれ出す。
彼女は涙を堪えながら、それでも微笑んだ。
──優しすぎて、時折厳しくて、底抜けに温かい。すごく、おとうさんらしい。
「そういう、人だったの」
「そうかい」
メアリが目元を拭う隣で、ボスは酒を一気に煽った。
空のグラスに氷の音が響いて、カウンター席の窓ガラスに反射する。
窓の外。輝く半月と、瞬く星々。
夜空の光たちが、黒髪の女の輪郭を、いっそう細く見せた。
「今宵は、星が綺麗だ。そうは思わないか」
「……? そうね。月も綺麗よ?」
視線を戻したボスの横顔には、かすかな陰りがあった。
「──私は先が長くない」
ボスの告白に、メアリは息を呑む。
「……な、何を仰ってるの? ボスさん、まだお若いでしょ」
「病のようなものだと、思ってくれていい。話せば長くなる。私の体は、もう、ふたつきと、持たないんだよ」
「…………」
低く乾いた声は、なんだか生ける死者のようで、うまい言葉を見つけられない。
半月。あれが消えて、満月になって、もう一度消えて──
その程度の時間しか、彼女には残されていないことになってしまう。
「そんな! な、なにか方法は? まずは共和国の医師に……そうだわ、〈煌力鉱石〉だって──」
「試した。すべて。治癒結晶は既に“毒”となったな」
メアリは言葉を失う。
酒の香りすら遠のき、胸の奥を焦燥が焼いた。
けれども彼女はまだ諦められなかった。
「なら話してよ。その内容。全部、話して!」
「今更、だ。そんなことは」
諦めたくないのに、怒るに怒ることができなくて、メアリは口をつぐんだ。
月に照らされた彼女の横顔が、あまりにも哀しい色を帯びていたから。
「父を亡くした。守るべきものがある──君は、私によく似ている」
真っ赤な瞳がメアリの琥珀色の視線と絡み合う。
「君に、頼みがある。私の言うことを、ひとつ。どうか聞いておくれ」
──……
あれからボスは、頼みごとをしてきた。
ひとつ。──帝国軍と組んで、戦争に行くから、カーマイン・ギース元帥と近づいてみてくれないか、と。
当然、メアリは反対した。
結社が戦争に混じるのは勝手だが、自分は帝国軍とは何があっても協力できない立場だと。
対するボスは、密やかな声で続けた。
「偽造書を用意するから。ふたりぶん。それを使って、むしろ〈帝国軍〉に近づいて欲しいんだ」
先日メアリが聞いた言葉を、今はシエルが聞いている。
広くつややかな廊下の片隅。青年は、恐れながらも問を返した。
「……なんでですか?」
「商会や帝国と取引を重ねるうち、私はある情報を掴んだんだ。彼、ギースは、鎖国中の〈逃亡者〉の投獄制度について、反対派であるようなんだ。そして、〈ガルニア帝国〉について詳しくない者は即座に切り捨てるほどの、非情な面も持っている」
「それは……“カーマイン・ギース元帥は底の知れない偉大な軍人だ”とは聞いてましたが、投獄に反対とは」
知りませんでした、と零すシエル。彼の手には、メアリから渡された〈偽造の身分証〉が握られている。……無い経歴の辻褄合わせに“孤児”だのなんだのと色々書かれた、自分の名前ではない身分証。
ボスはヒールの底を鳴らして、一歩近づきながら、彼に告げた。
「〈帝国人〉である君たちにしか、頼めない。未来も変わるやも知れない。機会があれば、会話してみてくれ」
メアリがふうっと息を吐く。
「そう言うこと。まあ、ダメで元々なんだし、無理せず頑張りましょ?」
シエルはしばらく唸っていたが、やがて首を縦に振った。
「……分かりました」
助かるよ! と息を吐く結社のボスの声を聞き、メアリは長いまつ毛を伏せる。
〈結社のボス〉は、善悪のものさしで測れる人では、ないような気がした。そして、それは、もしかしたら自分自身にも、同じことが言える……。メアリの中にも、暗中模索の思考がひそかに芽生え始めていた。
◆
控え室に、会場脇に、飲食の席に。彼らは三者三様にそれぞれの場へと戻る。
数刻が過ぎたのち、パーティは無事に終わりの時間を迎えた。
──本日の情報交換で新たに得たものもあるだろう。各々、戦いに向けて準備をするように。──〈戦女神〉の加護があらんことを!
結社のボスはそう言って、会を締め括った。
冬の訪れを感じさせる、肌寒い夜の出来事だった。