夕刻の手紙


五章『あの日の戦争』


 
  

 ──戦争が始まってしまった。
 
 そう思ったのはいつの日だったろう。
 生まれたときから、世界のどこかで争いが起こっていた。
 どこかのお偉いさんの都合だったのかもしれないし、国や、民族同士の亀裂が大きくなる原因が、昔からあったのかもしれない。
 そんなふうに理由をつけながら、世界はずっと争っていて、人はいつも神に祈っている。
 
 とある幼い少年もまた、神に祈った。
 
『父さんと母さんが仲直りできますように』
 
 それは“家族という最小の集団”の争い解決のための、祈りだった。
 
 少年・シエルは、物心ついたときから、熱心に天に向かって祈っていた。
 なんでも、父が別の人を好きになって、母は気を病んでしまったらしい。だから、優秀でない子は、もう“要らない”のだと、ある日の母は言った。父もまた、お前が生まれたせいだと僕を責めた。
 
 少年にはもう、わからなかった。
 だれが被害者で、だれが加害者なのか。
 
 人は相手を好きだから、愛を誓うのだと、聞いていた。
 家族は支え合うものだ、と、教会のシスターは教えてくれた。
 
 村の家庭に響く怒鳴り声の背後に、巨大な爆発音が響いたとき、少年は思った。
 
 ──ああ、また、戦争が始まってしまった。
 
 テスフェニア公国の、一度目の襲撃。
 帝国育ちの少年の前に謎の銀髪男が現れたのは、その日のことだ。
 遠い日の記憶。もう夢か現実かも覚えていない、ただの夢まぼろし。
 
 
 
 
 ────……
 
 ズネアータの中心区にある大ホールは、この夜、ひときわ明るく輝いていた。
 数十ものシャンデリアが天井から吊るされ、磨き上げられた床にほのかに映り込む様は、まるで別世界のようだ。
 白いクロスを掛けたテーブルには金縁の皿と豪奢な銀食器が並び、山盛りの果実や肉料理が彩りを添えている。共和国の重鎮や、商会の顔役たちが笑い声を交わし、場を賑わせていた。
 
 シエルとメアリは、慣れない正装に身を包み、その光景を眺めていた。
 シエルは借り物の黒いスーツの襟を直しながら、小さく息を吐く。微妙に肩幅に合っていないせいか、窮屈で、ちっとも落ち着かない。
 
 ──ある秋の日。『近々、披露宴と作戦会議があるから』と言って、レイミールとファクターから今回の正装衣装を渡されたのだ。心の準備をするような時間はなく、あれよあれよと当日を迎えてしまった。
 
 隣のメアリはというと、スカイブルーのシンプルなフレアドレスに身を包んでいた。
 薄紅色の髪を一つにまとめ、背筋を伸ばし凛としてはいるが、横顔から見える長いエルフ耳の赤さが、彼女自身の緊張感を物語っている。
 見惚れていたら、ふと彼女がこちらを見て表情を緩ませた。
 
「シエル、どしたの? 緊張してる?」
「へ? いや、あの……綺麗だな、と思って」
 
 相変わらず素直な弟の返事。
 メアリは銀のクラッチバッグを握りしめて、僅かに頬を赤らませる。
 
「もう、こんなときに何言ってるの」
「ご、ごめん……。でも本当だよ」
 シエルは頭を掻いた。なんとなく照れくさい空気が流れてゆく。
 
「……そう……ありがとう。また、〈結社〉からの借り物が増えちゃったわね。そろそろお金リルを払いたいくらいだわ」
「そうだね、今度払おうよ」
 うんうん、と頷く姉。彼女の笑顔はいつも、場を和ませるに足る力を持っていた。
 
「オイ!」
 少し離れたところから、乱暴に声をかけられる。
 見れば、想像通りの人物がそこに立っていた。
「あ、先輩……」
 しかしシエルは目を丸くした。
 結社の先輩・ロネも黒のスーツ姿だった。タイは赤いが、白シャツやグレーの髪も相まって、全体的にモノクロでピシッとした印象である。
 珍しくほとんど着崩さずに着用しているせいだろうか、信じられないくらい、しっかりとしたお兄さんに見えた。
 隣の姉も少なからず驚いたのか、手で口元を覆って彼を見ている。
 
「あ、じゃねーーよ。ンなとこで突っ立ってる暇があンなら、ちったァ配膳手伝え!」
 ……実際に喋ると台無しなのだが。
 心のどこかで安堵しながら、シエルは首を傾げる。
 
「はいぜん……? 僕たち、何も言われてないですよ」
「オレら世代だけかよ……!」
 よくよく見てみれば、先輩は片手にお盆を持っている。
 何か頼まれていると察して、手伝いますよ、と言おうとした瞬間。
 その言葉をロネ本人によって奪われた。
 
「クソが……!! 酒でも呑んで潰れてろッ!」
「えぇ……」
 ご丁寧に親指を下げるジェスチャー付きで、黒スーツの灰髪男はズカズカとホールの人混みに消えていく。
 
 メアリが小声でつぶやいた。
「ロネさんたら。ひとこと言ってくれれば……」
 
 彼女の声を途中で遮ったのは、目の前の視界だった。突如として照明が落ち、ホールが暗闇に包まれる。
 どくん、とシエルの心臓が高鳴った。
 
 ──今、新たな戦いが始まろうとしている。
 共和国の空を渡る、巨大な船を目撃したあの日から、日々過激になっていく世論の答えの一端を。きっと今日、知ることができる。
 
 
 
「ときは満ちた!」
 
 特徴的なアルトの声が薄暗闇に響いた。
 ボスの声だ。彼女のそばに立つ小さな影が、一人。その人物は、ボスと共に手をこちらに差し向け、ボゥ、と手のひら大の炎を空中に灯した。
 
「皆様、お集まりいただきありがとうございます。此度の会の進行は、わたくし──」
 レッドカーペットの壇上にて、小柄な女性がピンヒールの踵を揃え挨拶する。
「レイミールと。そして、我らが“結社のボス”が務めさせていただきます」
 
 彼女らが手のひらを上に掲げると、真っ赤な炎が天井まで飛んで、弾けた。
 用意されていた巨大なくす玉のような物が割れ、会場全体にキラキラと光エネルギーの粒子が飛び散った。
 同時に、すべてのシャンデリアが柔らかく点灯し、暗転前より明るく華美に照らされる。
 
「これより、〈従軍征途じゅうぐんえんと〉の合同作戦会議を開始する!」
 
 見事な開演演出とともに轟いた声の主に、会場の視線が集中する。
 ひとりは、深紅のロングドレスを長身に纏い、長く艷やかな黒髪を流した姿の女性。
 もうひとりは、黒に近い濃紺のドレスをすらりと着こなし、金髪を細かく編み込んでいた。
 〈結社〉のボスと、その秘書レイミール。
 もとより美しい二人組ではあるのだが、着飾ると見違えるような美女である。
 
「まずは主催のフラーク様より、ご挨拶頂きます」
 ざわり、と空気が揺れる。二人の美女のあとに壇上に上がったのは、背筋の伸びた老人だった。
 
「皆の衆ご機嫌麗しゅう。ようこそ、我が商会館へ。私は〈柿色の商会フラーク・カンパニー〉代表、オズウェル・フラークだ」
 白髪まじりの茶髪。長めの前髪の下から覗く柿色の瞳。
 銀のステッキを支えにしながら、老人は柔らかな笑みを浮かべて聴衆を見渡した。
 
「今宵──ここに集って貰ったのは、ひとえに此度の〈大戦〉においての“商機”と“未来”を共有せんがため。戦火は広がりつつある。しかし、戦の只中にこそ、我ら商人は秩序を作り、富を築く役目を担っておる」
 
 気づいたら、シエルは息を詰めて彼の話を聞き入っていた。……以前に鉱山で対面したときにも感じたが、フラークは理知的な雰囲気のご老人だ。声は穏やか、だが、言葉の端々には老練な豪胆さが滲んでいる。
 来賓席の共和国の重鎮たちも深く頷き、ざわめきは静かに収まっていった。
 
「何じゃそげは。聞き捨てならんのぅ!」
 
 威圧感のある声と共に、重々しい足音が響く。
 その男の姿にシエルは声もなく喘ぐ。真っ黒な軍服──各所に赤いラインの入ったそれは、明らかに見覚えがあった。
 
(……カーマイン・ギース……!)
 
 己の声帯がわずかに震える。
 本来ならば、共和国ここにいるはずのない人物。
 黒と赤の軍服を纏った、体格のよい壮年の男。焦茶の短髪とレッドブラウンの細い瞳──〈ガルニア帝国軍〉の現トップ。
 
「ギース様!」
 レイミールの焦ったような呼び声を無視して、軍服の男は主催者に歩み寄ると低い声で言った。
 
「ハッ……黙って聞いとりゃあ、綺麗ごとば言いよるな! 実際は違うばい。剣も爆薬も、誰かが作り、誰かが売りよる。そん流れが円滑に回るほど戦を長引かせるっちゅうんを、貴様、忘れとらんじゃろうな?」
 言葉に方言が混じり、今度こそ会場の空気が凍りつく。
 ギース元帥はなだらかな二段の段差から壇上を睨み、唇を歪めて笑った。
 
「どーせ、公国側にも回しとるんじゃろうに。戦を引き延ばせば引き延ばすほど、商人どもは肥え太る。剣も結晶も、兵の血の代わりにリルで回っちょる。……それを、秩序だと? 笑かせる!」
 
 挑発的な言葉に、一部の来賓がざわついた。
 だが彼の目の前のフラークは動じない。むしろ、老いた瞳の奥に鋭い光を宿し、微笑を深めた。
 
「ギース元帥。武力こそが国家そのものを守る礎であること、疑いませぬ。されども、剣は鍛えなければ錆びる。兵は食を欠けば倒れる。──力を活かすための物の“流れ”を担うのが、我々商会の役目でございまする」
 柔らかくも一切退かぬ口調。老商人と猛将、ふたりの間に火花が散った。ギースが一歩踏み出し、低く唸る。
 
「そげん理屈で、命の値打ち決めんじゃなか。血の値段を万札リルで数えるケチくさいやつぁ、ワシは信用ならん」
「ごもっともだ!」
 
 結社のボスがすっと間に割って入った。張り詰める空気を断ち切るように。
 鮮やかな深紅のドレスに黒髪を揺らし、シャンパンカラーのピンヒールを響かせる音が会場に響く。彼女の真っ赤な瞳がギースの目を捉えた。
 
「両者の言葉に真理がある。戦を支えるのは武力、そして流れ。どちらが欠けてもならぬのが、真実だ。──そうであろう?」
 
 その声は落ち着き払っていたが、否応なく全員を従わせる説得力があった。
 彼女は手に力を込め、はっきりとしたよく通る声で続けた。
 
「ゆえに、好機! 我らが手を結べば……勝てぬ戦など、この世にありはしないよ」
「──よぅ吠える女じゃ。貴様の策があるもんなら述べろ。一度聞いてやってもええ。なあ? 商人フラーク」
「えぇ。左様で。その為の、今夜ですよ」
 
 両者の言葉が出揃った。
 隣に控えるレイミールが細く息を吐きながら帳面を開き、冷静に告げる。
 
「では──本日、〈従軍征途じゅうぐんせいと〉の具体的計画を、ここに提示いたします。共和軍、結社、帝国との共同戦線中における作戦について。その征途の大枠を……」
 視線が壇上に集中し、会場は再び静まる。
 シエルは人々の背越しにボスを見つめた。
 
 
(やっぱり……ボスも〈世界大戦〉に関わってる。〈結社〉はただの自衛団や、何でも屋なんかじゃない……。ひとつの戦争そのものを動かしているんだ)
 
 
 恩人を疑うつもりなどなかった。
 だが、自分が何のために生きて、何のために戦うのか、ただ知りたい。そう願うのは……何かおかしなことだろうか?
 
 かつて少年であった一人の青年は、思わずスーツ袖の下の拳を握りしめた。

 

 





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