五章『あの日の戦争』
“第43話 〈大戦〉激化・従軍征途”
──戦争が始まってしまった。
そう思ったのはいつの日だったろう。
生まれたときから、世界のどこかで争いが起こっていた。
どこかのお偉いさんの都合だったのかもしれないし、国や、民族同士の亀裂が大きくなる原因が、昔からあったのかもしれない。
そんなふうに理由をつけながら、世界はずっと争っていて、人はいつも神に祈っている。
とある幼い少年もまた、神に祈った。
『父さんと母さんが仲直りできますように』
それは“家族という最小の集団”の争い解決のための、祈りだった。
少年・シエルは、物心ついたときから、熱心に天に向かって祈っていた。
なんでも、父が別の人を好きになって、母は気を病んでしまったらしい。だから、優秀でない子は、もう“要らない”のだと、ある日の母は言った。父もまた、お前が生まれたせいだと僕を責めた。
少年にはもう、わからなかった。
だれが被害者で、だれが加害者なのか。
人は相手を好きだから、愛を誓うのだと、聞いていた。
家族は支え合うものだ、と、教会のシスターは教えてくれた。
村の家庭に響く怒鳴り声の背後に、巨大な爆発音が響いたとき、少年は思った。
──ああ、また、戦争が始まってしまった。
テスフェニア公国の、一度目の襲撃。
帝国育ちの少年の前に謎の銀髪男が現れたのは、その日のことだ。
遠い日の記憶。もう夢か現実かも覚えていない、ただの夢まぼろし。
────……
ズネアータの中心区にある大ホールは、この夜、ひときわ明るく輝いていた。
数十ものシャンデリアが天井から吊るされ、磨き上げられた床にほのかに映り込む様は、まるで別世界のようだ。
白いクロスを掛けたテーブルには金縁の皿と豪奢な銀食器が並び、山盛りの果実や肉料理が彩りを添えている。共和国の重鎮や、商会の顔役たちが笑い声を交わし、場を賑わせていた。
シエルとメアリは、慣れない正装に身を包み、その光景を眺めていた。
シエルは借り物の黒いスーツの襟を直しながら、小さく息を吐く。微妙に肩幅に合っていないせいか、窮屈で、ちっとも落ち着かない。
──ある秋の日。『近々、披露宴と作戦会議があるから』と言って、レイミールとファクターから今回の正装衣装を渡されたのだ。心の準備をするような時間はなく、あれよあれよと当日を迎えてしまった。
隣のメアリはというと、スカイブルーのシンプルなフレアドレスに身を包んでいた。
薄紅色の髪を一つにまとめ、背筋を伸ばし凛としてはいるが、横顔から見える長いエルフ耳の赤さが、彼女自身の緊張感を物語っている。
見惚れていたら、ふと彼女がこちらを見て表情を緩ませた。
「シエル、どしたの? 緊張してる?」
「へ? いや、あの……綺麗だな、と思って」
相変わらず素直な弟の返事。
メアリは銀のクラッチバッグを握りしめて、僅かに頬を赤らませる。
「もう、こんなときに何言ってるの」
「ご、ごめん……。でも本当だよ」
シエルは頭を掻いた。なんとなく照れくさい空気が流れてゆく。
「……そう……ありがとう。また、〈結社〉からの借り物が増えちゃったわね。そろそろお金を払いたいくらいだわ」
「そうだね、今度払おうよ」
うんうん、と頷く姉。彼女の笑顔はいつも、場を和ませるに足る力を持っていた。
「オイ!」
少し離れたところから、乱暴に声をかけられる。
見れば、想像通りの人物がそこに立っていた。
「あ、先輩……」
しかしシエルは目を丸くした。
結社の先輩・ロネも黒のスーツ姿だった。タイは赤いが、白シャツやグレーの髪も相まって、全体的にモノクロでピシッとした印象である。
珍しくほとんど着崩さずに着用しているせいだろうか、信じられないくらい、しっかりとしたお兄さんに見えた。
隣の姉も少なからず驚いたのか、手で口元を覆って彼を見ている。
「あ、じゃねーーよ。ンなとこで突っ立ってる暇があンなら、ちったァ配膳手伝え!」
……実際に喋ると台無しなのだが。
心のどこかで安堵しながら、シエルは首を傾げる。
「はいぜん……? 僕たち、何も言われてないですよ」
「オレら世代だけかよ……!」
よくよく見てみれば、先輩は片手にお盆を持っている。
何か頼まれていると察して、手伝いますよ、と言おうとした瞬間。
その言葉をロネ本人によって奪われた。
「クソが……!! 酒でも呑んで潰れてろッ!」
「えぇ……」
ご丁寧に親指を下げるジェスチャー付きで、黒スーツの灰髪男はズカズカとホールの人混みに消えていく。
メアリが小声でつぶやいた。
「ロネさんたら。ひとこと言ってくれれば……」
彼女の声を途中で遮ったのは、目の前の視界だった。突如として照明が落ち、ホールが暗闇に包まれる。
どくん、とシエルの心臓が高鳴った。
──今、新たな戦いが始まろうとしている。
共和国の空を渡る、巨大な船を目撃したあの日から、日々過激になっていく世論の答えの一端を。きっと今日、知ることができる。
「ときは満ちた!」
特徴的なアルトの声が薄暗闇に響いた。
ボスの声だ。彼女のそばに立つ小さな影が、一人。その人物は、ボスと共に手をこちらに差し向け、ボゥ、と手のひら大の炎を空中に灯した。
「皆様、お集まりいただきありがとうございます。此度の会の進行は、わたくし──」
レッドカーペットの壇上にて、小柄な女性がピンヒールの踵を揃え挨拶する。
「レイミールと。そして、我らが“結社のボス”が務めさせていただきます」
彼女らが手のひらを上に掲げると、真っ赤な炎が天井まで飛んで、弾けた。
用意されていた巨大なくす玉のような物が割れ、会場全体にキラキラと光エネルギーの粒子が飛び散った。
同時に、すべてのシャンデリアが柔らかく点灯し、暗転前より明るく華美に照らされる。
「これより、〈従軍征途〉の合同作戦会議を開始する!」
見事な開演演出とともに轟いた声の主に、会場の視線が集中する。
ひとりは、深紅のロングドレスを長身に纏い、長く艷やかな黒髪を流した姿の女性。
もうひとりは、黒に近い濃紺のドレスをすらりと着こなし、金髪を細かく編み込んでいた。
〈結社〉のボスと、その秘書レイミール。
もとより美しい二人組ではあるのだが、着飾ると見違えるような美女である。
「まずは主催のフラーク様より、ご挨拶頂きます」
ざわり、と空気が揺れる。二人の美女のあとに壇上に上がったのは、背筋の伸びた老人だった。
「皆の衆ご機嫌麗しゅう。ようこそ、我が商会館へ。私は〈柿色の商会〉代表、オズウェル・フラークだ」
白髪まじりの茶髪。長めの前髪の下から覗く柿色の瞳。
銀のステッキを支えにしながら、老人は柔らかな笑みを浮かべて聴衆を見渡した。
「今宵──ここに集って貰ったのは、ひとえに此度の〈大戦〉においての“商機”と“未来”を共有せんがため。戦火は広がりつつある。しかし、戦の只中にこそ、我ら商人は秩序を作り、富を築く役目を担っておる」
気づいたら、シエルは息を詰めて彼の話を聞き入っていた。……以前に鉱山で対面したときにも感じたが、フラークは理知的な雰囲気のご老人だ。声は穏やか、だが、言葉の端々には老練な豪胆さが滲んでいる。
来賓席の共和国の重鎮たちも深く頷き、ざわめきは静かに収まっていった。
「何じゃそげは。聞き捨てならんのぅ!」
威圧感のある声と共に、重々しい足音が響く。
その男の姿にシエルは声もなく喘ぐ。真っ黒な軍服──各所に赤いラインの入ったそれは、明らかに見覚えがあった。
(……カーマイン・ギース……!)
己の声帯がわずかに震える。
本来ならば、共和国にいるはずのない人物。
黒と赤の軍服を纏った、体格のよい壮年の男。焦茶の短髪とレッドブラウンの細い瞳──〈ガルニア帝国軍〉の現トップ。
「ギース様!」
レイミールの焦ったような呼び声を無視して、軍服の男は主催者に歩み寄ると低い声で言った。
「ハッ……黙って聞いとりゃあ、綺麗ごとば言いよるな! 実際は違うばい。剣も爆薬も、誰かが作り、誰かが売りよる。そん流れが円滑に回るほど戦を長引かせるっちゅうんを、貴様、忘れとらんじゃろうな?」
言葉に方言が混じり、今度こそ会場の空気が凍りつく。
ギース元帥はなだらかな二段の段差から壇上を睨み、唇を歪めて笑った。
「どーせ、公国側にも回しとるんじゃろうに。戦を引き延ばせば引き延ばすほど、商人どもは肥え太る。剣も結晶も、兵の血の代わりに金で回っちょる。……それを、秩序だと? 笑かせる!」
挑発的な言葉に、一部の来賓がざわついた。
だが彼の目の前のフラークは動じない。むしろ、老いた瞳の奥に鋭い光を宿し、微笑を深めた。
「ギース元帥。武力こそが国家そのものを守る礎であること、疑いませぬ。されども、剣は鍛えなければ錆びる。兵は食を欠けば倒れる。──力を活かすための物の“流れ”を担うのが、我々商会の役目でございまする」
柔らかくも一切退かぬ口調。老商人と猛将、ふたりの間に火花が散った。ギースが一歩踏み出し、低く唸る。
「そげん理屈で、命の値打ち決めんじゃなか。血の値段を万札で数えるケチくさいやつぁ、ワシは信用ならん」
「ごもっともだ!」
結社のボスがすっと間に割って入った。張り詰める空気を断ち切るように。
鮮やかな深紅のドレスに黒髪を揺らし、シャンパンカラーのピンヒールを響かせる音が会場に響く。彼女の真っ赤な瞳がギースの目を捉えた。
「両者の言葉に真理がある。戦を支えるのは武力、そして流れ。どちらが欠けてもならぬのが、真実だ。──そうであろう?」
その声は落ち着き払っていたが、否応なく全員を従わせる説得力があった。
彼女は手に力を込め、はっきりとしたよく通る声で続けた。
「ゆえに、好機! 我らが手を結べば……勝てぬ戦など、この世にありはしないよ」
「──よぅ吠える女じゃ。貴様の策があるもんなら述べろ。一度聞いてやってもええ。なあ? 商人フラーク」
「えぇ。左様で。その為の、今夜ですよ」
両者の言葉が出揃った。
隣に控えるレイミールが細く息を吐きながら帳面を開き、冷静に告げる。
「では──本日、〈従軍征途〉の具体的計画を、ここに提示いたします。共和軍、結社、帝国との共同戦線中における作戦について。その征途の大枠を……」
視線が壇上に集中し、会場は再び静まる。
シエルは人々の背越しにボスを見つめた。
(やっぱり……ボスも〈世界大戦〉に関わってる。〈結社〉はただの自衛団や、何でも屋なんかじゃない……。ひとつの戦争そのものを動かしているんだ)
恩人を疑うつもりなどなかった。
だが、自分が何のために生きて、何のために戦うのか、ただ知りたい。そう願うのは……何かおかしなことだろうか?
かつて少年であった一人の青年は、思わずスーツ袖の下の拳を握りしめた。