四章『蘇る不死鳥』
“第39話 糾弾”
診療所の奥。石造りの中の鉄骨が剥き出しになった天井には、煙のすすがまだ薄黒く残っていた。
ふたりはあれから手分けして、約十数人の手当を終えた。
ベッドに横たわっていた最後の負傷者の手当てが終わり、消毒の薬品の香り漂う空間の中、シエルはようやく、ひと息をついた。
「なんか、鉱山地区の依頼のときに似てますね」
思い出したように、シエルがぽつりと漏らす。
鉱山の爆発に巻き込まれた男性が倒れていて、治癒結晶が使われた現場を見たときのことを。
レイミールが横目でシエルを見た。
「ああ……、ロネから報告貰ってるわよ。実演が見られたんですってね」
「はい。治癒の結晶──〈煌力鉱石〉でしたっけ。あれって、今回みたいな依頼には使わないんですか?」
問いかけるシエルの声色には、無垢な疑問の奥に、ほんのわずかな知的好奇心が混じっていた。レイミールは苦笑を浮かべ、机の上にあったガラスの小瓶を指でとんとんと叩く。
「実はね──あれ、ああ見えてお高いのよ。ひとつで十五万リルは飛んでいっちゃうわ」
「じゅ、十五!?」
シエルの顔に驚愕が刻まれる。
レイミールは肩をすくめるようにして、平然と答えた。
「そう、十五。だから、大勢が満遍なく負傷するような場面での使用には、向いていないわね──それに」
言葉を切って、彼女はシエルの顔を見上げた。
「副作用があるの。聞いたでしょう?」
「え……使う時間が遅いと、効果が薄れるとは聞きましたけど……」
シエルは首を傾げながら言ったが、何かが足りないという違和感をすでに感じ取っていた。それは注意点や補足のようなものであって、副作用と呼べるものでは無いからだ。
その違和感を拾い、レイミールは少し意地悪く、眉を上げた。
「あーら、それだけ?」
「はい……多分」
正直に答えたが、普段柔和な彼女の表情はわずかに冷たくなっていた。診療所の個室に流れる沈黙のなか、レイミールは真剣な声で告げた。
「だとしたら、ちょっと実用的な視点に欠けるわね。〈煌力鉱石〉は、超回復の代償に、“人間の免疫自体を減退させる”と言われているわ。そして、“二度目はない”の」
「二度目がない? ……一度使ったら、おしまい?」
シエルの声が震える。
レイミールは頷き、手にしていた小瓶を握りしめた。
「二度目の使用は、効果がないに等しい。治癒のチカラは『命の前借り』なの。軽々しく、使われていいものじゃないわ」
彼女の視線は、ベッドの上で疲れて眠る、幼い少女の包帯に向けられていた。
その少女は、脚に大きな切創を作っていた。瓦礫に足を挟まれたうえ、捻挫してしまったらしい。現状、杖なしで歩くことも難しい。
結晶を使えば、より早く歩けるようになるかもしれない。だがそれは、次に致命傷を負ったとき、この子を救えなくするという選択でもある。
「万能薬があったらいいのにね。今でも時々、そう思うわ」
「……ですね」
シエルは微かにうつむいて、彼らの怪我の回復を祈った。
────……
──…………
診療所の内部の扉が、きぃ、と軋むような音を立てて開いた。
一通りの治療を終えて個室を出たシエルとレイミールが廊下に出ると、男の荒々しい声が飛んできた。
「おい。アンタら! 〈結社〉の人間か?」
もしやロネが迎えに来たのか、と一瞬錯覚したが、すぐに違うと気がつく。
目に飛び込んでくる厚い胸板と武骨な腕。上背もロネよりさらに高く、血走った目をした筋肉隆々の男が、まるで待ち構えていたような態度で立ちはだかる。
反射的にシエルの背筋が伸びた。
「は、はい!」
「だとすれば、よくもまあ俺らの前にのうのうと顔出せたなあ!!」
男の怒声は診療所の外まで響きそうなほどで、シエルはたじろぎながらも、必死に言葉を探した。
「……と、言いますと……?」
怒りの理由もわからぬまま問うたシエルに、男は拳をぎゅっと握り締めたまま、低く唸るように吐き捨てた。
「しらばっくれるな!! あの女! 〈結社のボス〉のことだ!」
その通り名を聞いた瞬間、シエルの表情がわずかに強張った。
「あのクズ女は、よりにもよって公国の貴族を誘拐しやがった! そのせいで、当て付けに〈この町〉が攻撃されたんだぞ!」
「ひっ、ひぇ……」
噴き出すような怒りに思わず声が裏返ったシエルを、レイミールがかばうように一歩前に出る。
荒れ狂う男の後ろ側から別の制止の声が入った。
「おいよせ! ひとまず落ち着け。そんな眉唾な噂を彼らに言っても……」
ノイド町長が焦ったような声色で男を制していた。
「落ち着いていられるか!! あの女は危険だ、誰も分かっちゃいねえ!」
だが男の怒りは止まらない。
対して、レイミールは微笑みを浮かべ、淡々と応じた。
「……大層お強いお言葉だことね。なにか根拠でもあるの?」
その冷静な声音に男が一瞬たじろぐが、すぐに威圧的に踏み出した。
「アンタ名前は?」
金髪の女は足元の踵を揃え、胸元にそっと片手を当てながら、殊更丁寧に告げた。
「レイミール。結社〈恒久の不死鳥〉幹部、レイミール・フォン・サラリアと申します」
──アナタは? と表情を緩めて聞き返す。
言い終えた後も、彼女は姿勢を崩そうとしない。先ほどまで怒鳴り声を受けていた人間とは思えないほど、彼女の態度は終始、落ち着き払っていた。
「……アスランだ。アスラン・クラディ」
男・アスランは、しぶしぶ名乗ったあと、懐から皺だらけの新聞の切り抜きを取り出した。
「これだよ、証拠ってのは……! 公国の兵士が落として行った記事だ」
無造作に突き出された紙片にレイミールは視線を落とした。
少年、シエルはその背後で、ヒュっと息を呑んだ。──記事には『建国祭』『皇子』『誘拐』などの文字が黒々と並んでいたのだ。
しかし、前に立つ上司は無感動な様子で切り捨てた。
「……くだらないわね」
「な、何だと貴様!?」
怒気が再び爆ぜる。だがレイミールは瞳を静かに細めながら、言い返した。
「それより、為すべきことが、他に山ほどあるのではないの?」
「口答えするな! なんの価値もない、利用されてるだけの組織者の分際で……!!」
怒りに任せて吐き捨てるアスランに、レイミールは柔らかな口調のまま言葉を重ねる。
「おっしゃる通りだわ。誠に申し訳ないのだけれど、アナタの“価値”には及ばないみたい……。ごめんなさいね」
声色は丁寧だが、その芯に譲らぬ強さが込められているのを、シエルは感じた。彼女は、あくまで内省的に謝罪し、男の怒りを煽らず、しかし一歩も退かなかった。
彼女の対応に、シエルはただ黙って見入っていた。
メアリとも、ロネとも、ボスとも違った類の強さを、彼女──レイミールの中に垣間見た気がした。
「謝れば済むとでも思ってんのか、アバズレ女!!」
アスランの怒りは尚も収まるところを知らない。
怒号混じりの声が診療所の中に響く中、その騒ぎを聞きつけて、町の外れからふたりの影が駆けつけた。
「──レイさん!」
叫んだのはメアリだった。作業用の革手袋を片手に外しながら、顔色を変えて門扉をくぐる。
その背後から、長身の影が割って入る。
「……オイ!!」
ロネだった。飛び込むようにして現れた青年が、アスランの胸ぐらをがっしと掴んだ。
そのあまりの剣幕に、場の温度が一気に上昇する。
「テメェ。今、結社のレイさんに向かって何つッた?」
「…………」
男はすぐには答えなかった。彼の無言の睨みは挑発とも取れた。
「撤回しろ! しねェなら……」
青年の止まらぬ言及に、アスランが怒鳴り返す。
「するわけねえだろうが!!」
「死ねクソ野郎ッ!!」
唾が飛び、両者の殺気がぶつかり合う。
ロネが左腕に力を込め、もう一歩踏み込もうとしたその瞬間、周囲が慌てて止めに入る。
「やりすぎだ!」
町長が、アスランの肩を後ろから強引に引き戻した。
「ロネさんストップ! 落ち着いて、町の人よ!」
メアリがロネの腕を両手で掴み、必死に抑え込む。顔を紅潮させながらも、毅然とした声音だった。
ロネは息を荒げたまま、しばし睨み合っていたが、やがて胸ぐらを掴んだ手から力を抜いた。
男は外から町の若者たちに取り囲まれ、そのまま街の西側へと連行されていった。現場が静まるまでに、随分と時間を要した。
気まずい空気がその場に残る。
「……レイさん、本当にすまない。アイツも気が立ってるんだ……」
町長が肩を落としながら、レイミールの前で深々と頭を下げる。
彼女は一瞬視線を伏せた後、穏やかな笑みを口許に浮かべ、静かに首を横に振った。
「いいえ。むしろ、不安な気持ちにさせてしまって、申し訳ございません」
「……今夜はここに泊まってもらうのは危険かもしれねぇな。アイツの勢いじゃ何やらかすか分からねえ」
町長の言葉に、レイミールは頷いた。
「行き先はあてがあるわ。今日すべき作業を終えたら、一度帰投させていただくわね」
風が一段と冷たくなってきた時刻、診療所の前には簡素な荷台が停められ、積み下ろしが終わった物資の箱がいくつか並べられていた。包帯や保存食。清潔な水のタンク。ちいさな医療器具。町に引き渡されたそれらは、その後、店の軒先や診療所、小さな教会、そして民家へと運ばれていった。
レイミールは町長と一言二言交わすと、肩口の髪を揺らして馬車の横へと歩いた。最後に一言礼を言って、町長は深く頭を下げた。
傾いた陽が、少年たちの足元に長い影を落としていた。一陣の風が足元を通り抜け、シエルの結社のロングコートの裾をはためかせていく。町の湖が美しい夕日の色に染まり、見る者の胸の痛みを癒してくれるように思えた。
いやに静かな出立だった。
首都なら聞こえる教会の鐘の音もなく、今は馬車の中での会話もなかった。
宿のある町へ。馬車が、町外れの坂を颯爽とのぼって、下っていく。沈みゆく景色の中を、馬車は急足で駆け抜けていった。
◆
とっぷりと日は暮れ、とうに一般的な夕食の時刻を回っていた。
首都への道すがら、〈鉱山地区〉の町へ着いた一行は、街角に馬車をとめて、適当な宿を借りた。
夜の森は危険だと言うことで、今夜はロジュガの宿に泊まっていくことになったのだ。
食後の宿には、薪の爆ぜる音が静かに響いていた。小さめの宿屋のラウンジではあるが、灯りは柔らかく、外の真暗な闇を忘れさせるだけの暖かさがあった。──シエルは、早い時間に布団に入ったものの全然眠れそうになく、暖かそうなラウンジに来たら、メアリもロネも同じように出てきていたのだ。
まさか、とひとしきり笑い合った。
それからはぽつぽつ喋りながら、三人で暖炉の熱に当たっている。
……レイミールは眠ってしまったのだろうか。ボスのこと、依頼のこと、できるなら色々聞きたかった。
少年が物思いに耽っていると、もぞりと隣の人物が動いた。
ロネだ。背もたれの深い椅子に体を預けた彼が、不意に顔を上げた。
「あの男の話、信じるなよ。シエル」
名を呼ばれて、シエルの肩がわずかに跳ねた。焚き火に向けていた視線を、ゆっくりとロネに向ける。
「ボスが何だとか言ってやがったが、あんなヤツの言うこと大ウソだ。信じる要素がねェ」
怒気をはらんだ声。その背後には、どこか焦りにも似た熱があった。ロネは唇を噛んだ。自分より年若いふたりが、あのザイアの町で見聞きしたことを、心に溜め込んでいるのを察していた。
「だ、だけど……」
ロネは知らないが、シエルはテスフェニア公国の記事を確かに見てしまった。
公国兵が持っていたという紙面には、『建国祭にて ウォン皇子誘拐』の大きな見出しがあったのだ。
真偽はともあれ、今更それごと忘れました、と言うのも不可能な話だ。
「それか、なンだ? テメーはオレよりアイツ見てーなクソの意見を信じるってのか?」
「…………」
ロネの鋭い言葉が突き刺さる。シエルは何も返せず、俯いた。
町の男の言葉すべてを鵜呑みにしたわけじゃない。でも――それでも、心の片隅に引っかかる。「あの女は危険だ」「利用されてるだけ」といった言葉が、毒のように脳裏に染み付いていた。
──ボスのことを、僕はどれだけ知っているだろう?
帝国で逃げ場をなくしていたあのとき、助けてくれたあの人。
理由は確かに聞いた。「かつて自分も孤児だったから」と──逆に言えば、それだけだった。
依頼の現場に顔を出すことは稀で、〈結社〉の活動方針や命令を示すときだけ現れる。冷静で的確、だけども彼女はどこか遠い存在だ。公国の遠征でも、ボスだけは常に別行動だった……。
「……えっと……」
自分の中に、ボスを守るだけの確信がない。誰かに反論できるだけの“根拠”がない。
無力な沈黙だけが落ちる。少年のちいさな胸の奥で、何かが蠢いていた。
「シエル」
ロネがもう一度名を呼ぶ。その声はさっきとは違って、少しだけ柔らかかった。
「は、はい」
「前の遠征。……ハッキリ言って助けられた」
シエルの目が見開かれた。先輩からそんなふうに感謝されたのは、初めてだった。
〈公国遠征〉でのことを思い起こしながら、シエルは己の罪から目を背けるように目を瞑る。
「僕は……何も」
自嘲のようにかすれた声で返す少年に対し、ロネは食い気味に言い放った。
「何も、じゃねェよ。どこがだ? 仲間もガキも助かった、充分だろうが!」
声に混じる感情は、シエルを責め立てる類のものではなく、彼が自分自身を過小評価していることに対しての激情だった。シエルは、明らかに努力している。故郷を出て、新しい環境に喰らいつき、こうして酷い現実に悩み、どうにか立ち向かおうとしている。
それはメアリも同じだが、決定的に違うのはふたりの在り方そのものだ。
ロネは椅子から立ち上がった勢いのまま、背中を向けてラウンジを後にしようとする。
「行動はもう足りてンだよ。テメーに足りねーのは心だけだ」
ロネはしかめっ面の横顔で言葉を吐くと、振り返ることなく、階段をのぼっていく。
「ちょ、心って……もうちょっと言葉選びなさいよ、違うでしょ、それは」
メアリが彼の後姿に向かって、呆れたように言ったが、他ならぬシエルが彼女を止めた。
「メアリ、待って! わかる、わかったから」
「わかるってなにが……」
振り返ったメアリの目に、炎に照らされた弟の真剣な表情が映る。
「僕に足りないのは、心の一部だ。それはたぶん、勇気……みたいなものだと思うから」
「ううん……勇気、ねぇ」
小さくつぶやく。メアリは内心驚いていた。気弱な弟がそこまで考えていたことに。
シエルはまっすぐに姉の顔を見た。
「僕、決めた。メアリ、明日は南町の依頼に行こう。農家のソフィーさんにも、記者のパメラさんにも話を聞くんだ」
火の粉がぱち、と弾ける音に混じって、シエルの声が響く。
声には確かな決意があった。さっきまでの迷いが吹っ切れた……聞く者が聞けばそう確信できるほど、明瞭で意気のこもったものだった。
「南町に? でも、そんな都合よく依頼があるかしら……」
「もし無かったら、別の依頼を取って、早足で挨拶だけ行こう。直接、確かめたい。あの町だったら、できるはずだ」
メアリはしばらく黙ってシエルを見つめた。何かを推し測るように。
そして、静かに笑みを浮かべる。
「……なるほど。ニュースペーパーの件も込みでね」
姉の言葉に、シエルは力強く頷いた。
「後悔なんてしたくない。僕は、真実を知りたいんだ」
共和国の情報発信の中枢──新聞社・アルバクロノス。
〈結社〉の名が、ある日を境にパタリと紙面から消えた。その背景にはきっと理由がある。
彼らは“何か”を知っているはずだ。少年は静かに拳を握りしめた。