夕刻の手紙


二章『シエルの居場所』


 
  

 
 のどかな風のたゆたうアルバの町。陽光に照らされた街並みと、広大な畑の遠景が広がり、どこか緩やかなときが流れている。
 ──直後。
「うわぁぁっ!」
 少女の悲鳴が、農村の空気を割いた。
 ピィィ────……と、高い笛の音が空を駆け抜けていく。
 
「あ…………っ!?」
 音のした方向を振り向くと、腰を抜かしている少女の前に、黒い体毛の大熊のような怪物が揺らめいていた。異質な黒いモヤが、残像のように残っている。
 ただの獣ではない。異界の住人、〈骸霊ガイレイ〉だ。
 少女が口元で笛を握りしめる。その前で、大熊が腕を振り上げた。
 
「カレサちゃん!」
 誰よりも早くメアリは走り出す。一飛びで駆け寄り、抜刀した細剣を振り抜いた。
 
『ヴォオオオッ!!』
 柔らかにしなる剣筋に沿って、黒い血が弾ける。
 少女を脇に抱えて、一歩下がった彼女の視線の先。右手奥の高所に、不自然な黒いモヤが湧き上がっていた。
 
「右手奥、敵襲! 伏せろッ!」
 ファクターが、がなり声を張り上げた。彼は口に咥えたマッチを擦ると、懐から、点火した爆薬を放り投げる。着弾。派手な衝撃音と共に、鳥獣の形をした〈骸霊〉が空中から姿を現した。
 
「ギシャァァァア!!」
 爆風に吹き飛ばされ、鳥獣は呻きながら大熊の頭上へ落下する。
 フッ、と口の中で息を吐いたファクターは、火の消えたマッチ棒を骨ばった手で携帯灰皿に押し込んだ。
 ……ファクターさん、かっこいい! とシエルが思ったのも束の間。
 町はずれの森の奥から〈骸霊ガイレイ〉が湧いてくる。
 大樹型の化け物、巨大な蜂、ドス黒い牙を生やした兎、やけに筋肉質な狼──どれも異形。数も二、三体どころではない。軽く十体を超えていた。
 
「こ、怖っ!!」
 地面に降ろされたカレサが、震える腕で自分を抱きしめる。
 記者のパメラは、興奮した様子で手帳を構えた。
「異界の住人と呼ばれる〈骸霊ガイレイ〉が、こんな大群で……! これは、ビッグニュースの予感ですっ!!」
「いや、逃げなよ! 危ないってば!!」
 
 少女が記者にツッコんでいる。
 人間、不思議なもので、自分より動揺している人間がいるとかえって落ち着くものだ。
 シエルは剣柄に触れながら、ファクターに問うた。
 
「こっちには、あんなのがわらわら居るんですか……?」
「いや。町には〈骸霊ガイレイ〉避けの結界がある。そうそう侵入できるはずがないのだが……」
「絶対おかしい……。あんな数、見たコトないもん……」
 騒ぎに気づいたのか、青ざめたカレサの後ろから、農家の婦人が叫ぶ。

「ダメ!! あっちは居住区なの、誰か止めて!」
「下がろう、ソフィー」
 
 農夫は彼女の腕を支えて寄り添っていた。
 ファクターが口元を覆いながら、呟く。
 
「不味いな……」
 農夫たちが後退する中で、彼は冷静だったが、その目は緊張に満ちていた。
 町も、人も、畑も。何としても守らねばならない。
 
 
 
「私が守らなきゃ……今、やらなきゃ!!」
 メアリが走り出す。彼女の朱い髪が、風に揺れる。

 ──僕もやろう。メアリひとりには、行かせられない。
 シエルは眼鏡を外し、制服の胸ポケットに突っ込む。
 剣柄を引き抜いて、少年は叫んだ。
 
『──〈十字眼ディスティア〉──具現せよ!!』
 すると、シエルの瞳孔が十字に輝いて、鉄の部分のない奇妙な剣柄から、翡翠色の刀身が現れた。
『はぁあッ!』
「グルァアアアッ!!」
 猛スピードで迫ってきた黒狼が吠えるも、剣が閃き、血飛沫が舞った。
 半透明な緑の刀身が尾を引いて、端から残像を残して消えてゆく。
 
「僕、足は引っ張らないから……!」
 前に立つ姉に向かって言ったその言葉を聞いて、彼女は黒い狼を切り捨てながら応える。
 
「シエル! 無理はしちゃ、ダメだからねっ!」
 
 年若い姉弟が戦場を駆ける姿を、農夫たちと結社の仲間たちは呆気にとられて見守っていた。
 
「なんだいファクターさん、あの凄まじい魔煌ヴィレラは……」
「さあな。私も実際に見たのは、初めてだ。──よう、死なんもんだ」
 誰も、彼の独白に返す言葉を持たなかった。
 
 
 
「──メアリ、前!!」
 シエルは叫んだ。彼女の前。歩く大木型の骸霊ガイレイが木の枝を鞭のようにしならせて襲い来ている。
 
「ふっ……!」
 くるりくるりと、メアリは剣を縦横無尽に踊らせてゆく。まるで、“おまえたちの敵は自分だから、他者には手を出すな”と、声に出さんばかりの剣捌きで。
 細身のレイピアが太陽の光を乱反射して、高速の剣が煌めく。眼前に迫った異形、大樹の節穴へ目掛けて、まっすぐ剣を突き立てた。
 
「ヤァッ!!」
 
 ──ズゥゥゥーン……
 
 剣を引き抜くと同時に、大木の化け物が倒れ伏す。
 
「ブゥッブゥッ!」
「くっ……!!」
 隙ができた彼女の脇腹を狙わんとした巨大な兎を目視したシエルは、弾かれたように跳躍する。
 剣を握る左手に強く力を込めると、無形の長剣がより眩く光を放つ。少年は両手で振りかぶって、思い切り剣を振り下ろした。
 
「はぁああああッ!!」
「ピギェエ!!」
 化け兎の断末魔が耳障りで、思わず顔を顰めるも、少年はすぐに顔を上げて周囲の状況を確認しようとした。
 森の奥。街道から外れたあぜ道から、またも大型の〈骸霊〉が続々と湧いている。
 
 
 
「……まだ、あんなに……!?」
 
 シエルは肩を上下させながら、焦りの色を浮かべた。
 もう十体以上は増えているように見える。
 あれを二人で相手するということもだが、大前提として、これは防衛戦だ。全部をせき止められる自信は正直ない。下手したら、自分の剣の煌力レラが切れるかもしれない。
 
「ファクターさん! 援護、お願いできませんか!?」
 シエルが背後を向いて願うと、壮年の男は真顔で言い放った。
 
「構わんが、私の爆薬の残機は二だぞ」
「すくなっ!! なんでそんな現実的な量なんですか!」
「勘弁してくれ。私の本業は学者なんだぞ」
「……は、はい……すみません、頑張ります」
 シエルがガックリと肩を落とす。
 
「──……!」
 そのとき。メアリが一瞬、静止した。彼女のアンバー色の瞳は、何かを捉えている。
 
「──みんな、下がってて!」
「メアリ!」
 
 僕もカバーする、という意思を込めて叫んだつもりだったが、彼女は誰の声も気に留めず、全力で疾走している。
 彼女は突然、右手に持っていたレイピアを回して優美な動きで鞘に収めると、地面に転がる大木の残骸を両腕で掴んだ。
 
「何を……!?」
 剣をしまえば防御できない。
 くそ、と声が漏れる。シエルは逡巡し、メアリの利き手と逆の左側へ移動した。
 
「ラァあああああぁぁぁぁ!!」
「!?」
 腹の底から出てきたような怒声に見上げると、彼女は自分の倍はある大木の幹を肩に持ち上げていた。その細腕の一体どこにそんなパワーを隠しているのか。
 メアリの堂々たる立ち姿は、鬼気迫るほどの迫力をまとっていた。

「ったくッ」
 世話が焼ける、というイントネーション。ファクターが空中の〈骸霊ガイレイ〉を処理している。
 
「ひえぇ……」
 カレサが口を覆おうとして、手を虚空で彷徨わせた。
 ソフィーもその場でへなへなと座り込んで震え上がっている。
「あの子、どうなってるの!?」
「アタシにもわかんない……多分、とんでもない怪力……?」
 
 メアリは普通の女の子だが、ハーフエルフという種族の違いもあるだろう。だが、それ以上に彼女を突き動かすのは、その並々ならぬ正義感と心の強さだ。
 彼女の義弟おとうとであるシエルは、それを誰よりも知っていた。
 
「メアリ!!」
 名を呼んだ。僕にとっての大切な人である、姉の名を。
 大木を担いだ彼女は軽く体を沈め、反動をつけると、群れの中央めがけて投げつけた。
 
「やああぁぁ────っ!!」
 
 ──ドォォォオオオオン!!
 木が命中し、土煙が巻き上がる。あたり一帯が白いモヤに包まれた。
 
「うぅ……あ、あれ……?」
 
 敵の足音が、しない。
 それもそのはず、〈骸霊ガイレイ〉の群れがいたはずの森の手前の空間は、今はまるで最初から何もなかったかのように空白と化していた。その場には、既に倒された後の化け物の骸が残るのみだ。
 
「……すごい……」
 
 カレサがぽつりと呟く。
 土煙の中、現場は沈黙していた。その場にいた誰もが、少女の怪力に目を見張っていた。
 
 
 
「……ふふっ、やった……!」
 メアリが息を切らしながら、屈託なく笑った。
 笑顔のまま、膝から崩れ落ちる。
 
「メアリッ!」
 シエルが剣を片手に駆け寄って、抱きとめる。
 額に汗が滲んでいた。
 
「無茶、しすぎだよ……」
「ごめんね……でも……みんなが、無事で……よかった!」
 
 かすれた声に、少年の胸が締めつけられる。
 彼女はいつも、命を懸けて、本気で誰かを守ろうとする人だった。
 半身を起こしたメアリが、農夫やカレサたちに問う。
 
「みんな、怪我はない?」
「いや、お陰でナイけど……キミは!? ほら右手、血が出ちゃってるよ」
「平気よ! ちょっと棘が掠っただけ」
 周囲の心配の声が集う。
 農夫ゲラルトがメアリに歩み寄って、尋ねた。
 
「お嬢さん、最後は何をしたんだ? なぜ、あの数が一瞬で……?」
「あぁ、あれね。あの骸霊ガイレイの群れの真ん中に、大きな黒いモヤがずっと渦巻いているのが見えたの。あそこから召喚されてるんじゃないか、と思って」
「……だからか。大元を潰したから、異界に帰った訳だね」
 もう、敵はいない。
 ようやくそのことが理解できた少年は、脱力して煌力レラの剣を解除した。フィン、と刀身が虚空に消えてゆく。息と一緒に、口から言葉も抜けていく。
「それならそうと言ってよ〜……」
「あのときは焦ってて……つい……」
 
 シエルが静かに眼鏡を掛け直しながら、ため息をつく。
「つい、って……」
「見とるこっちがハラハラさせられたぞ」
 ファクターも息を吐いた。後ろから、やや高い声が聞こえてきた。
 
「メアリちゃん。シエルくん」
 ソフィーだ。
 名前を呼ばれて振り向けば、農家の婦人は涙ぐんでいた。
「アルバを守ってくれて、ありがとうね」
「……はい!」
 
 ふたりはふっと表情をやわらげた。
 一部始終を見ていた新聞社の記者が、キラキラの瞳で本日の主役に語りかけた。
 
「これは、とくダネです!! そこのお嬢様! よければ詳しくお話をお聞かせ願えませんか!?」
「んもう、パメラちゃんのおバカ! そんなことより、この子はいそいでお手手の手当しなくっちゃあならないでしょう」
「そんな。いいのよ……」
「よかないわぁ! 包帯は巻かせてよねぇ」
「じゃあ、代わりにそこのボクからで! ぜひ取材をさせて〜!!」
「ぼ、僕ですか!?」
 アルバの町の人々に囲まれる新入りたちを見ながら、ファクターはマッチを擦った。咥えた葉巻に火を点ける。
 
「しかし、骸霊ガイレイの大群か……」
 
 おかしなこともあるもんだ。
 男の小さな独白は、喧騒に吸い込まれて消えていった。
 
 
 
 ──……
 ────……
 アルバの町はずれの森の中。
 青髪の兵士が、一頭の馬に乗って構えていた望遠鏡を下ろした。
 
「今回の試用運転はここまで、か」
 〈テスフェニア公国〉で新たに開発された、『骸霊ガイレイを一定時間召喚し続ける箱型の兵器』──丁度いい使用対象を見つけることができた己は、幸運だった。
 結論から言えば、悪くない視察成果を大公に報告することができる。
 
「……あれが〈結社〉の前衛」
 公国領事軍兵長、シウム・アークスは囁いた。
 ふたりとも、実に厄介で、おかしな力を持っていた。片方は奇妙な能力を。そしてもう片方はエルフの怪力を……。
 
「あの女……」
 
 ──赤い髪の少年少女。息子によく似た従隷エグリマを従えるヴェルス大公の趣味は自分にも理解しがたいが、主はなぜか赤髪……即ち、下民の血に拘る。あの赤髪は条件によっては色が薄くなる、あるいは、若くして白髪に脱色することがあるというが──。
 
 薄い紅色の髪に見える女の方には、上にとって価値があるかもしれない。
 
 アークスは、まだ興奮状態の馬をなだめながら、薄暗な森を早急に進み始めた。
 

 




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