DR+20


二章『シエルの居場所』


  
 直後。
「うわぁあっ!」
 少女の叫び声が聞こえてきた。
 ──ピィィ────……!
 笛の音色が空を駆け抜けていく。
「あっ…………!?」
 音のした方向を見れば、腰を抜かしている少女の前に、黒い体毛の大熊のような怪物がのそりと揺らめいていた。黒いモヤのような残像が残っている。
 普通の獣ではない。〈骸霊ガイレイ〉だ。
 口元で笛を握りしめている少女に、大熊が腕を振り上げる。
「カレサちゃん!」
 誰よりも早く、メアリが走り出した。
 最も近い場所から一飛びで駆け付けた彼女が、抜刀した細剣を振る。
『ヴォオオオッ!!』
 しなるように柔らかに描かれた軌跡と共に、黒い血が吹き散らされた。
 すぐさま、少女の脇を抱えて一歩下がった彼女の右手奥の高所に、不自然な黒いモヤが湧くのを目視して、ファクターが声を張り上げた。
「右手奥、敵襲! 伏せろッ!」
 彼は口に咥えたマッチを擦ると、懐から、爆薬を放り投げた。点火された爆薬がモヤの部分に直撃して、衝撃音が鳴る。
「ギシャァァァア!!」
 爆発と同時に空中から鳥獣型の骸霊ガイレイが現れていた。
 火薬の爆撃を受けた鳥獣は、地面で呻いていた大熊の頭に落下する。
 フッ、と彼が口の中で息を漏らすと、マッチの火は消えた。男は骨ばった手でマッチ棒を携帯灰皿に押し込む。
 ファクターさん、かっこいい! と思ったのも束の間、町はずれの森の奥から〈骸霊ガイレイ〉が湧いてきた。大樹型の化け物、巨大な蜂、ドス黒い牙を生やした兎、やけに筋肉質な狼──二体や三体ではない。ゆうに十体はいる。
「怖っ!!」
 メアリに降ろされ、地面に足をつけたカレサが自身の細身を抱いて叫んでいる。
 しかし新聞社の記者パメラは、手帳を構えて興奮気味だった。
「異界の住人と呼ばれる〈骸霊ガイレイ〉が、こんな大群で……! これは、ビッグニュースの予感ですっ!!」
「いや、今のうちに逃げなよ! 危ないって!!」
 少女が記者にツッコんでいる。
 人間、自分より動揺している人間がいると不思議と落ち着くものだ。
 シエルは冷静に剣柄を触れながら、ファクターに訊く。
「こっちには、あんなのがわらわら居るんですか……?」
「いや。町には必ず骸霊ガイレイ避けの結界が張ってある。そうそう入っては来れないはずなのだが……」
「絶対やばい……。あんな数、見たコトないもん。おかしいよ……」
 騒ぎを聞きつけたのか、青ざめる少女の後ろから農家の人が声を上げた。
「ダメ! あっちは集落のあるほうだわ!」
「下がろうユフィー」
「……っ!」
「不味いな」
 ファクターが掠れた声で唸る。
 農夫たちが引き下がるが、町の人は勿論、大切な作物にも、被害などあって欲しくない。
 ここで食い止めなければ、どちらも守ることは叶わない。
「私がやらなきゃ……! 今、やらなきゃ!!」
 剣を片手に、再びメアリが走り出す。彼女の朱い髪がふわりと靡く。
 僕もやろう。
 メアリひとりに行かせちゃいけない。
 シエルは、曇り眼鏡を片手で外し制服の胸ポケットに突っ込むと、剣の柄を引き抜いて叫んだ。
『──《十字眼ディスティア》──具現せよ!!』
 すると、シエルの瞳孔が十字に輝いて、鉄の部分のない奇妙な剣柄から、翡翠色の刀身が現れた。
『はぁあッ!』
「グルァアアアッ!!」
 足の速かった狼から奇声が上がる。血飛沫が舞う。
 美しい半透明な刀身が尾を引いて、端から残像のみが消えてゆく。
「僕、足は引っ張らないから……!」
 勇敢な姉に向かって言ったそのセリフを聞いて、姉は奥の黒い狼を切り捨てながら答える。
「シエル! 無理はしちゃ、ダメだからねっ!」
 
 年若い少年少女が懸命に戦う後ろ姿を、農夫たちと結社の面々は、呆気にとられながら見ていた。
「なんだいファクターさん、あの凄まじい魔煌ヴィレラは……」
「さあな。私も実際に見たのは、初めてだ。──よう、死なんもんだ」
 現在男たちの独白に応えるものは居なかった。
 
「──メアリ、前!!」
 シエルは叫んだ。彼女の前。歩く大木型の骸霊ガイレイが木の枝を鞭のようにしならせて襲い来ているのを目視したからだ。
「ふっ……!」
 くるりくるりと、メアリは剣を縦横無尽に踊らせてゆく。まるで、“おまえたちの敵は自分だから、他者には手を出すな”と、声に出さんばかりの剣捌きで。敵の攻撃を次々と切り付け退けていった。
 細身のレイピアが太陽の光を乱反射して、高速の剣が煌めく。眼前に迫った大樹の異形、その節穴目掛けて、彼女は剣を一直線に突いた。
「ヤっ!!」
 ──ズゥゥゥーン……
 剣を引き抜くと同時に、大木の化け物が倒れ伏す。
「ブゥッブゥッ!」
「くっ……!!」
 隙ができた彼女の脇腹を狙わんとした巨大な兎を目視したシエルは、弾かれたように跳躍する。
 剣を握る左手に強く力を込めると、眩い煌力レラの剣の光が一際強くなった。少年は翡翠の長剣を両手で振り上げ、思い切り振り下ろした。
「はぁああああッ!!」
「ピギェエ!!」
 化け兎の断末魔が耳障りで、思わず顔を顰めるも、少年はすぐに顔を上げて周囲の状況を確認しようとした。
 森の奥、舗装された街道から逸れたあぜ道から、大型の骸霊ガイレイが複数体沸いているのが見えた。
「……まだ、あんなに……!?」
 シエルは肩を上下させながら、焦りの色を浮かべた。
 もう十体以上は増えているように見える。
 あれを二人で相手するということもだが、大前提として、これは防衛戦だ。全部をせき止められる自信は正直ない。下手したら、自分の剣の煌力レラが切れるかもしれない。
「ファクターさん! 援護お願いできませんか!?」
 シエルが背後を向いて願うと、壮年の男は真顔で言い放った。
「構わんが、私の爆薬の残機は二だぞ」
「すくなっ!! なんでそんな現実的な量なんですか!」
「勘弁してくれ。私の本業は学者なんだ」
「……すみません頑張ります」
 少年がガックリと肩を落とす。
「──……!」
 メアリが一瞬、ぴたりと静止して、すぐさまこちら側に声を張り上げた。
「──みんな、下がってて!」
「メアリ!」
 僕もカバーする、という意思を込めて叫んだつもりだったが、彼女は周囲を一つも気に留めることなく、全力で疾走している。
 彼女は突然、右手に持っていたレイピアをくるりと回して優美な動きで鞘に収めると、地面に転がっていた大木の残骸を両腕で掴んだ。
「何を……!?」
 剣を仕舞ったら、メアリの身が守れない。
「くそっ……!」
 シエルは逡巡して、自分の剣でメアリの左側を守ることに決めた。右はメアリの利き手だから自分でなんとかしてくれるだろう。
「ラァあああああぁぁぁぁ!!」
 腹の底から出てきたような怒声に横目で見上げると、彼女はなんと自身の二倍もある大木の幹を肩の上まで抱え上げている。その細腕の一体どこにそんなパワーを隠しているのか。その堂々たる立ち姿は、鬼気迫るほどの迫力をまとっていた。
「ったくッ」
 世話が焼ける、というイントネーション。当のメアリの頭上で爆破音が響く。空を飛行する骸霊ガイレイをファクターが処理してくれている。
「ひえぇ……」
 カレサが口を覆おうとして、手を虚空で彷徨わせた。
 ユフィーもその場でへなへなと座り込んで震え上がっている。
「あ、あの子、どうなってるの!?」
「アタシにも、わかんない……多分、とんでもない怪力なんじゃない?」
 メアリに異能らしい異能はない。
 ただ、生まれついてハーフエルフである、というだけだ。
 それも、その怪力だけで容易く出来る芸当ではなく。メアリ自身のもつ正義感や、心の強さが彼女をより強くするのだ。
 彼女の義弟おとうとであるシエルは、それを痛いほど知っていた。
「メアリ!!」
 姉の名を呼んだ。
 僕にとっては、ヒーローにも等しいその名を。
 昔、泣き虫だった僕を助けてくれたのも、いつも、メアリだったから。
 重量物を持ち上げた姉は態勢を整え、軽く反動を付けると、巨大な大木を群れの中央に向かって力いっぱい放り投げた。
「やああぁぁ────っ!!」
 ──ドォォォオオオオン!!
 大木は群れに直撃した。
 そこから煙が吹き上がって、辺りが白いモヤに包まれる。
「うぅ……あ、あれ……?」
 少年は首を傾げた。──敵の足音がしない。
 それもそのはず、骸霊ガイレイの群れがいたはずの森の手前の空間は、今はまるで最初から何もなかったかのように空白と化していた。その場には、既に倒された後の化け物の骸が残るのみだ。
 半身を起こしたメアリが、農夫やカレサたちに問う。
「みんな! 怪我はない?」
「いや、お陰でナイけど……キミは!? ほら右手、血が出ちゃってるよ」
「平気よ! ちょっと棘が掠っただけ」
 もう、敵はいない。
 ようやくそのことが理解できた少年は、脱力して煌力レラの剣を解除した。フィン、と刀身が虚空に消えてゆく。息と一緒に、口から言葉も抜けていく。
「……終わった……のか」
 少年が静かに眼鏡を掛け直す。
 農夫ゲラルトがメアリに歩み寄って、尋ねた。
「お嬢さん、最後は何をしたんだ? なぜ、あの数が一瞬で……?」
「あぁ、あれね。あの骸霊ガイレイの群れの真ん中に、大きな黒いモヤがずっと渦巻いているのが見えたの。あそこから召喚されてるんじゃないか、と思って」
「……だからか。大元を潰したから、異界に帰った訳だね」
「それならそうと言ってよ、メアリ」
「ごめんなさいね。あのときは焦ってて……つい……」
 シエルが剣柄を鞘に戻しながら、ため息をつく。
「つい、じゃないよ、ホント」
「見とるこっちがハラハラさせられたぞ」
 男性陣に囲まれていた後ろから、別な声をかけられた。
「メアリちゃん。シエルくん」
 やや高い声。ユフィーだ。
 名前を呼ばれて振り向けば、婦人は涙ぐんでいた。指を組んで、二人に伝える。
「アルバを守ってくれて、ありがとうね」
「……はい!」
 若者二人はふっと表情をやわらげた。
 一部始終を見ていた新聞社の記者が、キラキラの瞳で本日の主役に語りかけた。
「これは、とくダネです!! そこのお嬢様! よければ詳しくお話をお聞かせ願えませんか!?」
「んもう、パメラちゃんのおバカ! そんなことより、この子はいそいでお手手の手当しなくっちゃあならないでしょう」
「そんな。いいのよ……」
「よかないわぁ! 包帯は巻かせてよねぇ」
「じゃあ、代わりにそこのボクからで! ぜひ取材をさせて〜!!」
「ぼ、僕ですか!?」
 アルバの町の人々に囲まれる新入りたちを見ながら、ファクターはマッチを擦った。咥えた葉巻に火を点ける。
 
「しかし、骸霊ガイレイの大群か……。おかしなこともあるもんだ」
 
 男の小さな独白は、喧騒に吸い込まれて消えていった。
 
 ──……
 ────……
 アルバの町はずれの森の中。
 青髪の兵士が、一頭の馬に乗って構えていた望遠鏡を下ろした。
「今回の試用運転はここまで、か」
 我が祖国・テスフェニア公国で新たに開発された、『骸霊ガイレイを一定時間召喚し続ける箱型の兵器』──丁度いい使用対象をズネアータまで行かずとも見つけることができた己は、幸運だった。
 結論から言えば、悪くない成果だ。
 帰国して問題なく大公お付に報告することができる。
 何せ、ここまでくる航路が複雑なのだ。漁船や貿易船の通らない海路は敵にばれる可能性こそ限りなく低いものの、迂回が多く、手間だ。視察データが取れないことだけは避けたかった。
 一人旅というには重装だから、馬を連れてきたことも、我ながら、良い判断だった。
 しかし──
「……あれが結社の前衛」
 公国領事軍兵長、シウム・アークスは囁いた。
 実に厄介そうだった。ただの青臭い子どもであれば恐るるに足りないものを、二人ともおかしな力を持っていた。片方は奇妙な煌力レラを。そしてもう片方はエルフの怪力を……。
「あの女……」
 ──赤い髪の少年少女。息子によく似た従隷エグリマを従えるヴェルス大公の趣味は自分にも理解しがたいが、主はなぜか赤髪……即ち、下民の血に拘る。あの赤は条件によっては色が薄くなる、或いは若くして白髪に脱色することがあるというが……。
 薄い紅色の髪に見える〈あの女〉の方には、上にとって価値があるかもしれない。
 シウムはまだ興奮状態の愛馬をなだめながら、薄暗な森を早急に進み始めた。