二章『シエルの居場所』
新聞社の町・アルバ。
街の外れは大きな農地が広がり、レンガ調の住宅街には所々に小ぶりな噴水がある。そして、一番奥には有名な新聞社〈アルバクロノス社〉がそびえ立つ。
シエルはぽかんと、町の景色を眺めていた。
「ほ、本当に着いちゃった……」
「近いって本当だったのね」
帝国出身の二人は心底驚いた。
シエル達の感覚では、町同士がこんなに近いことがあるなんてことは、想像さえもつかなかったのだ。
少年はすぐに町の店を指差した。
「見てください! あそこ、お土産のお店がありますよ!」
「あー! 春のキーホルダーだぁ!」
「こらこら、待たんか。依頼に来とるんだぞ、我々は」
はしゃぐ子どもたちを引き止めるファクターは、さながら一行の保護者のような姿である。
結社の一行は一軒のログハウスを訪ねた。
「──いらっしゃい! お久しぶりね、ファクターさん」
玄関で出迎えてくれたのは、黒髪をアップにしてまとめ、ロングスカートをはいた優しそうな婦人だった。
「ユフィー夫人。お久しぶりです」
「やーね、いっつもご丁寧だこと! って……どうしたの!? その怪我」
「いや。少し転んだだけだ。そちらはお元気そうで、何より」
ファクターが外行きの対応をしている。
「そーう? お互いいい年なんだから、気をつけないとだねぇ」
婦人はそう言って少し屈むと、愛らしい少女に向かって挨拶した。
「カレサちゃんも、おはよう!」
「オハヨ♪」
「じゃあさっそく、お願いしようかしら! まず、うちの畑に案内するわ。付いてきて!」
緑に溢れたあぜ道を、歩いてゆく。
道すがら、婦人が話しかけた。
「あなたたちは、初めましてよね?」
「は、はい! シエルと言います」
「姉のメアリです。初めまして」
「ユフィーよ。よろしくね!」
ニコっと笑ったご婦人は、年齢など全く感じさせないほど、人としての愛嬌に溢れていた。
「はい!」
弟と共に返事をしながら、メアリは辺りを見渡した。一面のイチゴ畑の少し離れたところに、別の畑があるのが見える。看板に、『ジャガイモ』と書いてあった。
「ここにはイチゴだけじゃなくて、ジャガイモもあるのね。立派な畑だわ……!」
「あらあら! ありがとうね」
婦人が喜ぶ奥で、一人の男性が迎えてくれた。
「お、来たんだな」
「あなた! 結社のみなさんですよ」
「出遅れた。今日も頼むよ」
黒髪の男性も、手こそしわがれているが、穏やかで、なんとも若々しい印象の農夫であった。
農家さんって皆若いのか?
シエルはそこを不思議に思った。
少年の視線をなんと受け取ったのか、男性がちょっと苦笑いした。
「ゲラルトだ。新顔さん、よろしく」
「よ、よろしくお願いします!」
「さて。やり方だがね」
ゲラルトはシエルの前に立つと、畑の隅のイチゴに手を添えた。
「いいかい。真っ赤なイチゴを選ぶんだ。この茎の部分を指ではさんで、手で包み込みながら……こう、ひねる!」
手首をひねれば、パチ、と小気味のいい音がして、イチゴがひと粒収穫された。
「おお!」
「一度やってみな」
実った真っ赤なイチゴ。
シエルは恐る恐る、言われた通りにヘタの上を指ではさんで、見様見真似で手首を捻らせた。
──パチッ!
「で、出来た!」
「上手じゃないか」
隣で、私もできた! と喜ぶメアリの声が聞こえた。メアリは要領がいいから失敗なんてしないだろう。シエルは彼女の横顔を見てフッと微笑んだ。
「アタシもイチゴやるー!」
少女の声を聞きながら、ファクターが農夫に対してぼやく。
「この分だと、私はジャガイモ担当だな」
「あぁ。一緒にやっておくれや」
「了解した」
「さ、午後までにここらの収穫を終わらせるぞ!」
「はい!」
シエルたちは、分厚い雲間から覗く太陽に照らされながら、アルバ町のイチゴ狩りに精を出した。
◆
太陽は雲の上で、いつの間にやらてっぺんを通り過ぎたようだった。
午前の収穫を終え、大き目のログハウスに入ると、食卓には既に沢山の料理が並べられていた。漂う芳しい香りに、シエルとカレサは歓声を上げた。
「うわ〜!!」
「おいしそ〜!!」
「朝から動いて、お腹が空いたでしょう! 久し振りに腕をふるったから、よければ食べてちょうだいな!」
ユフィーがとびきりの笑顔で、猪肉料理を並べながら言った。
「まぁ! ありがとう」
「頂きます!」
「いただきまぁす!!」
若い三人が歓びの声を上げる中、壮年の男は一人で頭を下げていた。
「すまないな、私まで馳走になってしまって……」
「やあねえ、そんなこと言わないで! うちの特産を使ってるから、むしろ沢山食べて宣伝してってね♡」
ユフィーは朗らかな笑顔でウィンクした。
優しいながらもたくましい農家魂を聞かされた気がして、ファクターは無精髭をなぞりながら笑みを漏らした。
「なるほど。いいだろう」
シエルが猪肉を頬張りながら語る。
「にしても、アルバってすっごくいいところですねぇ。僕この町、大好きです!」
「そうかい? 新聞社以外何もない町だが……、そう言って貰えると、嬉しいね」
ゲラルトは微かにはにかんだ。
メアリもちょっと考えて、アルバの景色を思い起こした。
「ここには大きな畑だってあるし、ちっちゃな噴水にも鳥さんがいて可愛かったわ」
彼女の意見を聞いたユフィーが、はっと思い出したように告げる。
「そういえば、この時期は、ちょうど町の花畑が見頃なのよ!」
「花畑?」
「そっか! シエルたちは知らないよな」
カレサがジャーマンポテトを食べながら、頷く。婦人はおっとりとした声色で教えてくれた。
「“フラメリアの花畑”。ほんとの名前はないんだけれど、地元ではみんなそう呼んでいるわ」
「水色の花がいーっぱい咲いてて、ちょー綺麗なのにさ、何回誘ってもロネは来てくれないんだぜ」
カレサがムスッとした顔で告げる。
一面の花畑なんて、一体どんなふうに美しいのだろうか。ほんの少し想像しただけで、メアリたちは心が踊った。
「素敵ね! 私はそういうの、好きよ」
「へー。お花も気になりますねえ」
「ん! ……このマリネ、美味しい」
メアリが食べたのは、食卓に並ぶマリネサラダだ。
青々としたベビーリーフの中で映える真っ赤なイチゴには、新鮮な果汁が重ねて掛けられている。
夫人が朗らかに笑った。
「うふふ! それもうちのイチゴを使ってるのよ」
「イチゴのマリネなんて、初めて食べたわ。甘酸っぱくっておいしい」
「本当だ。甘いね!」
同じように食べてみたシエルは笑って、
「ディオルさん、これ好きだろうなぁ……」
そう呟いた。
向かいの少女が小首を傾げる。
「ディオルって、誰?」
「あ、メアリのお父さんなんです。僕らの格闘術の師範でもあるんですよ! ね、メアリ」
「え……、ええ!」
言葉に詰まりそうになったのを、何とか誤魔化す。
「へー! そうなんだ!」
そんなごく平和な会話を聞きながら、メアリは、昨日の手紙を思い出していた。差出人が父の名前の、手紙。
一文目に──“おまえがこの手紙を見る頃には 私はもうこの世にはいないだろう”──と、書かれた、悪夢のような手紙を。
「…………」
文は、簡素なものだった。
半分は国境の検閲で黒塗りにされていて、殆ど内容がわからなかった。残りの半分は、名前こそ直接書かれていないものの、私たちの身をひたすらに案じている内容だった。
個人への宛名すらも無い手紙。どうやら、〈結社〉宛に届いたものを私の家のポストに入れてくれた人がいたらしい。もしかしたら、ボスさんかレイさんかもしれない。
────おとうさんが、死んだ。
父はもう、本当に、この世にいない。
それを想った瞬間、苦しくて熱いものが胸元から込み上げて来た。
「……メアリ!? どうしたの!?」
弟の声が家に反響する。
気が付いたら、目から涙が溢れていた。
「あっ……いえ……っ、なんでも、ないの」
「だ、だいじょうぶ!? もしかして、やっぱりお口に合わなかった……?」
ユフィーの言葉に、メアリは必死に首を横に振る。口に合わないだなんて、有り得ない。
「お料理、とても、おいしいわ。ごめんなさい、私、疲れてるのかしらね……」
昨晩、あんなに泣いたというのに。まだ足りなかったらしい。
父・ディオルは亡くなった。もう二度と彼に会うことは叶わないのだ。まだ、親孝行のひとつもできていないというのに。このお料理だって、いつか再現して、食べさせてあげたかった。
メアリはフォークを置いて、両手で顔を覆った。
「……メアリ……」
弟の心配する声が聞こえてくる。
──シエルには、今は伝えられない、と、思った。
彼はまだ心身共に幼い。それに、異国での暮らしにも慣れていないときに“育ての親が亡くなった”と知れば、彼もまた相当なショックを受けるだろう。もしかすると、暫く立ち上がれなくなってしまうかもしれない。
今は、そのときではない。
「ほれ。使え」
横から壮年の男性の手が伸びてきた。黒いハンカチが添えられていた。
「ごめんなさい。ありがと……」
謝りながら受け取って、目元に無理やり押し当てる。ごしごし擦りながら、鼻水をすすった。
彼女はひとり静かに決意する。
今こそ、私がシエルたちを守らなくては。そう、先日のボスさんやロネさんのように──。
「……そういえば、今日、ボスさんって見てないわよね?」
メアリの疑問に、ファクターが口を開いた。
「ああ……ボスならまた交渉に行っとるぞ」
「昨日の、今日で……?」
「まあな」
忙しい人なのね、と思う。
ファクターに借りたハンカチで目元を拭いながら、ボスの交渉とはどんな物なのだろう、と想像した。