一章『強くなりたい』
不良が静まると、ざわざわとした人々の声が耳元に戻ってきた。
ズネアータの喧騒の中に、聞き覚えのある高いヒールブーツの靴音が混じっているのに気がついたのは、美しいアルトの声が聞こえたのとほぼ同時だった。
「なんだ、今朝は賑やかだね」
「──ボス!?」
サイドテールが靡く。艶やかな黒髪を束ね、丈の長い紺色の制服に身を包んだ長身の女性。
結社のボスと呼ばれる人が、背後に数人の部下を引き連れて大通りを歩いてきた。
「はて。〈柿色の商会〉の傭兵が、こんなところで何をしているんだ?」
彼女の赤い瞳は、彼らの胸元を見ている。
オレンジ色のバッジ。大きな牛の顔と、草木の模様が印された控えめなエンブレムを。
「最近有名だよ。丁度、お前のような背格好の、盗賊紛いが居るとね」
「なっ……」
路地で血を流し、腕をつく大男の顔を見遣るボスは、逆光に照らされ薄暗く笑んだ。
それは見る者を凍てつかせるほど、美しい表情で。
「よもや、このような真似をしているなどとギルド本部に知れたら……。お前たちはただでは済まないだろうね」
「まて! それだけは……」
「まあ、もう遅いがね。運べ」
ボスが顎で指示すると、路地の大男たちは結社の人に囲まれ、武器を取り上げられた。腕を捕まれて、立ち上がらされる。
「ハッ……」
ロネは分かりやすく息を吐くと、双剣を器用に手首で回して鞘に収めた。
今は、安全なようだ。
メアリもほっと息を吐くと、振り返って弟の顔を見た。
「シエル、怪我はない?」
「ないよ。メアリこそ、大丈夫?」
「私は大丈夫……だけど」
ふと、居心地の悪さを感じる。
大通りの片隅で、一定の距離を保って人が集まって来ている。
屈強な男たちが捕まって、連行されようとしているのだ。道を開けるように指示が飛び、嫌が応にも注目を集めてしまっている。
老若男女、大勢の視線に晒されたシエルは震え上がっていた。
もしこの中に僕らの追手が居たら?
そう思うと、背筋に冷たい鉄骨が入ったみたいになる。
甲高いヒールの音が響いた。
ボスだ。アシンメトリーな片翼のマントを翻し、彼女は声を張り上げた。
「よいか皆の者、聞け! 我らは、結社〈恒久の不死鳥〉!」
ハスキーな声音で名乗り口上を告げる。
突然何事なのか、と絶句したメアリと、同じく呆気にとられたシエルがボスを見上げた。
ボスはコツコツと大通りに出ると、太い両腕を掴まれて連行されている大男の項垂れた頭を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「今日、この不埒な盗賊どもには相応の罰が下るだろう! これからも、皆の暮らしを脅かすものあれば、我々が誰よりも先に動こうではないか!」
街角の民衆に手を伸ばして、彼女は叫んだ。
「ここに約束しよう! ザルツェネガ共和国の平穏な未来の為に!」
わあっと歓声が上がる。
堂々たる治安維持宣言は、戦時中の街中に、明るい話題としてこの大通りを駆け巡っていた。
「ったく、世話ねェな」
拍手を贈る民衆に手を振っているボスの後ろ姿を見ながら、ロネは気まずそうに頭を掻いた。戦った張本人なのに、表に出る気は無いらしい。
シエルは彼の元に駆け寄って、頭を下げた。
「あの、ロネ先輩。先程はありがとうございました」
「オウ」
軽く手を挙げて応えるロネに、シエルの姉も口を開いた。
「……どうも」
メアリの目は厳しいものだった。
恐らく、いまだに信じきれていないのだろう。あなたに助けられるまでもない、と言わんばかりの視線を向けている。
「チッ」
今度はよりはっきり聞こえてしまった。
舌打ち。隣を見れば、可愛い姉がすっごい不満げな表情になっていた。
こればっかりはメアリも悪いと思うよ。うん。
シエルはちょっと胃痛がした。
「それよか早く来いよ。レイさん、待たせてんだぜ!」
ロネが親指で西方向を指す。
そういえば、急いで結社へ向かっている途中だった。日常に戻ってきた思考が二人を頷かせた。
「「はい!」」
◆
曇天の空の下。硬質な建物の中。
ここは結社二階、事務室。
「おはようございます!」
「遅い!!」
広々とした部屋に女性の叱声が響き渡った。
「ひぇっ」
執務向けの椅子に腰掛ける金髪碧眼の美女──もとい、ボスの秘書・レイミールはご立腹だった。
「ロネ。わたくしは初日の新人さんを迎えに行ってさしあげて、と言ったわよね。アナタ、一体どこまで探しに行ったらこうなるの?」
半刻も掛かっているじゃない、と時計を指差す上司から、ロネは目を逸らした。
「悪ィ」
シエルはといえば、先輩の横で直立不動で固まっていた。
空気が怖くて話ができない。
レイミールはスケジュール帳に目をやって、ひとつため息をついた。
「ボスも帰ってこないし。今日は大事な商談があるのに」
「…………」
ロネ先輩まで、黙っちゃったよ……。
会話が途切れたところで、メアリが口を開いた。
「レイさん、これは、深い事情があるの!」
「事情ですって? アナタたち、遅刻に言い訳があるわけ?」
スーツの腕を組み直して訊く彼女の目は、未だ発言していないシエルの目を見ていた。
「えぇっとぉ…………」
シエルの目が泳ぐ。
あれ、街で事件が、とか言っても信じてもらえるだろうか? と思うと言葉がうまく出てこなかった。
見かねたロネが耳打ちした。
「オイテメー。頭、下げとけ」
「えっ、でも……」
「黙って下げろッつってんだよ、このクソガキィ!」
でかい声と共に頭を鷲掴みにされ、少年の肩が跳ねる。
「ひぃっ! すっ、す、すみません!」
後頭部を押され、反射的に頭を下げる。
同時になぜかロネ先輩も頭を下げていて、シエルはそっちに驚いた。
「ええはい、誠に申し訳ございませんでした」
隣の姉も冷えた声色で謝罪の言葉を口にして、深々と頭を下げていた。
メアリごめん……! 元はと言えば、僕がもうちょっと早起きしてれば、怖い事件にも巻き込まれずに済んだかもしれないのに。
シエルの胃痛は刻々と増していた。
廊下から複数の足音がすることに気づけたのは、ちょうど部屋が静かになっていたからなのだろう。足音が近づき、事務室の扉が開いた。
「やあ。待たせたね」
結社のボスその人が、護衛と共に帰還した。
「ボス。ボスまで遅くなるんじゃないかと思ったわよ!」
立ち上がって、レイミールが出迎えた。
ボスは先程の事件の際その場に残り、軍人のような格好の人たちと会話をしていた。さほど刻が経っていないが、もう話は済んだのだろうか。
顔を上げかけたシエルたちの様子を見て状況を把握したのか、ボスが首を振った。
「なに、怒らないでやってくれ。ロネは街の治安維持をしてくれていたのさ」
これが仔細だ、と言ってボスが秘書に手渡した数枚の書類には、手書きの達筆でさまざまなことが書いてある中に、今朝見たオレンジのバッジの模様が描かれていた。
「──ええっ?」
内容に目を通したのだろう、金髪の女性が声を上げる。
今朝のことだ、と確信したシエルは、一歩出て訴えた。
「そ、そです! 僕たち盗賊? みたいなのに襲われかけて……」
「えぇ。ロネさんが助けてくれたのよね」
メアリが続ける。
レイミールは新人たちを交互に見て、ロネに向かって問うた。
「そうでしたの?」
「遅刻は遅刻だ、しゃあねェよ」
ロネは顔を隠して、指先で前髪を掻いている。
言い訳はしないのが彼のスタンスなのだろう、とシエルは理解した。
「仕方ないわねえ……。初日に遅刻だなんて本来なら大目玉だけど、ロネの働きに免じて、今回だけは特例にしてあげましょう」
「ありがとうございます」
シエルとメアリは改めて頭を下げた。
もう充分大目玉を食らった気もするのだが、まだ上があったらしい。先輩たちのおかげで助かった。
小柄な秘書は穏やかな笑顔を取り戻して、告げた。
「みんな、今度からはもう少し早めにいらしてね。ロネと一緒に」
「へ……」
「家の方角、確か同じだったでしょう? 帰りも極力一緒にね?」
「わあったッて」
それは新人たちにとっては意外すぎる宣告だったが、ロネが返事をしたのでメアリも渋々頷く。
「……はい」
シエルは左隣のロネ先輩の顔を、静かに盗み見た。
いつ見ても迫力のある三白眼……いや四白眼?
短い髪型も、筋肉質な腕も、彼の怖い雰囲気を底上げしている。
こんな恐ろしい年上と行きも帰りも一緒なんて。
「チッッ……」
ロネが本日三度目の舌打ちをする。
「す、すみませんッ」
シエルは思考が顔に馬鹿正直に出るタイプだった。
「さて。本日の予定だが」
ボスが手を鳴らす。
彼女は笑みを浮かべ、場の人間をゆっくりと見渡した。
「シエルとメアリ。君たちには研修として、《煌力鉱石》の納入を担当して貰う」
「レラ……ジエジン?」
首を傾げるメアリと対照的に、シエルはピタリと動きを止めて、眼鏡の奥の瞳をやや細めた。
どこかで聞き覚えがあった。
もし僕の故郷で扱っていたとすれば、何かの燃料か、生活資源といったところか。
「例の物の説明は、遅かれ早かれ必要だろう」
「その通りですわね」
ボスと秘書が互いに頷いた。
「彼らを、ロジュガ鉱山地区まで同行させてやってくれ」
灰髪の青年を見つめながら、結社のボスが指示を出す。青年が横目で見て返す。
「なァ、オレの依頼って、採掘現場の方だぜ? ちっと早過ぎやしねェか?」
鉱山地区。採掘現場。これからそういう場所に向かう、という話なのだろう。シエルとメアリは緊張の面持ちで、結社の面々の会話を耳で追う。
「構わない。道中を共にするだけでいいんだ」
「ロネ。彼らは実は、紛争の経験者なの。物資の説明はとても大切なことよ」
上司たちの説得を受けて、ロネは目を瞑って小さく息を吐いた。
「そッか。わあったよ」
ボスが満足げに頷く。
そして彼女は、いつもの飄々とした表情で告げた。
「あと、私も同行する」
「本気で言ってますの!?」
「え……? ボスも来られるんですか?」
レイミールに続き、シエルが思わず訊ねた。
話の流れ的に、僕らがロネ先輩に連れられる鉱山に、ボスも着いてくると言うことになる。いや……立場的に逆なのか? ボスに僕らと先輩がついていくのか?
シエルは段々頭が混乱してきた。
「ああ。午後に組んでおいた商談も、ロジュガだっただろう?」
悪戯な笑みを浮かべるボスに、秘書が青い顔で口をパクパクさせている。
「あ……アナタって人は……!」
「ついでに、今回の件も話せる」
秘書はぶんぶんと被りを振った。それはもう凄い勢いで。
新人とだけ一緒なんて、でもロネも居るよ、もっと護衛をたくさんつけて、と、トップ達の舌戦が交わされる。
否。私が信頼できないか? などという、ボスの脅し文句に近い言葉を最後に、秘書はガックリと肩を落として項垂れた。
「……今回だけですからね?」
「はは。すまないが、レイミール。今夜までに、執務の管理だけ頼めるかな?」
どうやら二人の間で決着がついたようである。
ギルドの長の頼みに、秘書は机上の書類を揃えながら言った。
「じゃ、アナタの書類をきっちり纏めておきますから。つつがなく帰って来てくださいませね」
ああ、とボスが笑って手を振る。
僕たちは結社の事務室を後にした。