夕刻の手紙


一章『強くなりたい』


 
  

 見慣れた屋根裏部屋に、僕は居た。
 やや低い天井、小さなシングルベッド、濃い色の机に置かれた本とランタン。
 それらはすべて、優しいメアリと、その父親であるディオル叔父さんが用意してくれた物。
 確かに数年間暮らしていた、僕の仮部屋だった。
 
 本の背表紙にそっと触れてみると、ざらついた紙の感触がした。
 いやに現実味のある触り心地だが、同時にここが現実じゃないことを、僕は静かに理解していた。
 
 帝国を出るとき、お世話になった義父や旧友の顔をもう二度と見られないかもしれないと、考えていたから。決して忘れないように、でもいつか自然に忘れられるように。ちぐはぐな願いを、何度も浮かべ続けていたのだから。
 
「シエル。もう休みなさい」
 
 背後から低い声が聞こえた。
 
「……叔父さん」
「夜更かしは、身体に障るよ。いつも言っているだろう?」
 
 いつもの、優しいディオルさんだった。最後に聴いたのはほんのひとつき前なのに、ひどく懐かしく感じ、胸が苦しくなる。
 僕が喋れないでいると、“彼”が微かに笑った。
 
「それに、出来立ての朝ご飯を食べそびれてしまうかもしれない」
 
 優しい声と共に、鮮やかに浮かぶ光景。
 三人で囲む温かな朝食。メアリがたくさん喋ってくれて、僕もディオルさんも笑っていた。
 脳裏に浮かんだ離れがたい思い出をかき消すように、シエルは大きくかぶりを振った。
 
「叔父さん、僕はもう……!」
 
 こらえきれず振り向いた先にいたのは叔父ではなかった。
 シエルそっくりの柔らかな茶色い髪に、なめらかな輪郭。どこにでも居そうな姿の人物であったが、その顔は、ぼんやりと黒く霞んで見えた。
 
「母さん…………」
 
 見間違えようはずもない。
 今、目の前にいるのは、母だ。
 黒いモヤのかかったような母の口から、どす黒い言葉が落ちてくる。
 
『この出来損ない』
 
 震える声で。
 
『ぐずでのろまで、救いようのない子ね。日曜学級で学ばせる価値もないわ』
 
 怒りとも悲しみとも取れない、強い語調で、彼女は一方的に怒鳴りつける。
 
『おまえが、おまえが全て悪いわ! 父さんの代わりに、おまえが死ねばよかったのよ!!』
 
 ──ああ、そうだ。僕は……母さんに嫌われているんだった。
 今更思い出したくなかった。
 シエルは息を呑み、それを、肺から一気に吐き出した。
 
『〈十字眼ディスティア〉──具現せよ!』
 
 翡翠色の〈煌力レラ〉の粒子が手のひらに細長く具現化する。
 夢の中じゃ何も持ってないから、〈煌力レラ〉が手にばちばちと刺さって、痛い。しかしその刃を握りしめ、少年は勢いよく振り上げた。
 
「…………!」
『何をしているのっ!』
 
 もしこれが悪夢であるならば、この恐ろしい影を制すれば、目が覚めると思った。
 刃を握る手が、ガタガタと震える。
 
「母さんはいつもそうだ……。僕の気持ちなんて、ひとつも考えてない……!」
 
 ──母さん。僕はただ、あなたに抱きしめて欲しかった。
 なにかを“怖い”と泣いた僕を抱きしめて、ただ、頷いて欲しかった。
 
「そんな子に産んだ覚えはありません!! この……バケモノ!!」
「……あ……?」
 
 不意に、ちくり、とシエルの胸を刺す感覚。
 剥き出しの刃を振ることも投げることもできず、少年は硬直した。
 
 ──僕は母さんがいなくなった後、どうしてたんだっけ……。
 
 確かに、自分は〈マルス〉で生まれそだって。だけど。
 七年前、戦争が始まった日に親が亡くなった後のことを、やはり思い出せない。
 思いだそうと記憶の糸を辿ってみるのだが、五年をさかいに、薄い壁を一枚隔てたみたいに阻まれる。
 キィン、と床に刃が滑り落ちた。
 
「かあ、さん。僕、紛争の日はどうしてた……? 僕は……どうして十字眼なんてもの持ってるの?」
 
 目の前が白くぼやけていく。
 少年の涙声に、母親の冷たい声が被さった。
 
 
 ──ぐずでのろまで、救いようのない子ね。だから、あなたはダメなのよ──
 
 
 
「……ッ!」
 
 シエルは目を見開いた。
 がば、と勢いよく起き上がったのだが、新居のちんまりとしたワンルームは、今朝も至って静かだった。
 外から爽やかな鳥の鳴き声が聞こえてくる。
 
「また、か……」
 
 最近こんな悪夢ばかりで、嫌になる。昔から夢見のよい方ではなかったが、今日のは特にひどかった。
 夢の中ではまだ帝国にいて、叔父さんが出てきて……。それから、なぜか母さんが出てきて。色々言ってたような……。と、そこまで思案して、ハタと気が付いた。
 
 ――寝坊では!?
 
 壁掛けの煌力時計レラオクロックを見ると、既に時刻は八つの時を示そうとしていた。 
「ギリギリだよ!」
 心中ではやる胸を抑えて、大急ぎで支度する。
 顔を洗って、バケットに入れていたパンをかじって、服を着てから眼鏡を掛けるだけの簡単な準備。
 シエルがここに住み始めて、はや一週間。
 ちょっとした家具一式は揃って、寝食には困らなくなっていた。
 
「……ル! ……エルー!」
 外から聞き慣れた声が聞こえてくる。
 続いて、トントン、とノックの音が聞こえた。
 
「シーエールー! 遅刻しちゃうよぉ!」
 メアリだ。彼女はもう身支度を終えて、玄関前まで迎えに来てくれたようだ。
 
「はーい! 今いく――!」
 シエルは天然パーマの髪束を紐でひとつに括りながら、食べかけのパンをくわえ直した。先日もらった〈結社の笛〉と身分証、財布だけを手早くポケットに突っ込むと、ドアノブをひねる。
 玄関先では、薄紅色の可憐なセミロングヘアが風に揺れていた。
 
「お待たせ」
 ともに育った義姉へ軽く手のひらを見せる。
 つっかけた靴を爪先で履きながら、急いで鍵を閉めていたら、急に片手を繋がれた。
 
「もうっ!」
「ぅわ……」
 
 メアリの凛としたアンバーの瞳が、少年を見た。
 
「私じゃなくて〈結社〉が待ってるの! ほら、行くよ!」
 そう言って右手を引かれる。
 
「うん……」
 わざわざ、手を繋がなくたっていいのに。
 かわいい姉の世話焼きな体質は、変わらないようだ。
 
 アパートの急な階段を駆け下りる。
 曇り空の下。ズネアータの灰色の街中で、シエルは姉の後ろを、引っ張られるようについて行く。
 
「今朝の体調は?」
 道すがら、そんなことを訊かれたので、シエルは丸いパンを片手に応えた。
「ああ、よく寝れた。ご飯もこのとおりで」
 言いながら、三口ほどで器用にパンを頬張った。そのまま何度か嚙んで、ごくりと飲み込んで見せる。やはりおいしい。
 
「ならよかった!」
 彼女が流し目でふわっと笑う。
 メアリの愛らしい笑顔を見たら、今朝のひどい悪夢の話などは、すっかり言い出す気にもなれなくなった。
 
「そういう日はいいことがあるわよ」
 メアリがそう言った、瞬間だった。
 大通りの片隅、小さな路地から大男が出てきて、彼女の左肩にぶつかりそうになった。
 それを察した彼女の細身の体がひらりと右にずれた、直後。
 大男の巨体が同じ方向にズレて、思い切りぶつかったのだ。
 
「痛っ!」
「何ぶつかってくれてんだ? え?」
 間髪入れずに、大男が叫ぶ。
 男は筋骨隆々で、サイドの髪を刈り上げている。自分からは絶対話しかけたくない感じの風貌だ、とシエルは震えた。
 
「ごめんなさい、今急いでて!」
 メアリが謝ると、男はにやりと笑った。
「ゴメンじゃねーだろ?」
「……何?」
「リル。払えよ」
 びっくりな発言にシエルが思わず口を挟んだ。
「ちょ、ちょっと待ってください! 怪我も何もしてませんよね……?」
「はー? ザケんなよクズどもが! いいから払いやがれ!」
「……ちなみにいくらですか?」
「持ち前全部だよ。当たり前だろぉ?」
「いや……」
 だめだ。話が通じる相手じゃないかもしれない。
 周りに助けを求めたかったが、朝の大通りを道ゆく人は皆忙しそうで、路傍の騒ぎは見て見ぬ振りだ。
 
 耐えきれずメアリが叫んだ。
「ていうか! あなたの方からぶつかってきたんでしょう!?」
 怖い物知らずの姉は、大の男相手にガンつけている。
「いっぺん痛い目見ないとわからなーい、って顔してんな」
 大男はそんな彼女を馬鹿にしたように嘲笑すると、二回、靴音を鳴らした。
 それを合図に、背後の路地からぞろぞろと男たちが出てくる。
 
「やっちまうか?」
「へ〜、案外可愛いじゃん」
 長身の男とスキンヘッドの男、大男も含め、とても柄が良いとは言えない面々が揃う。よく見れば、彼らは刃物を携えている。
「……!」
 まずい。
 シエルは咄嗟に前に出ようとしたが、メアリの右手がそれを制した。
 まるで、下がって、と言うように。
「なぁ? 嬢ちゃんよぉ!」
 大男が笑う。無意味な返事を待たず、右腕で殴り掛かってきた。
 
「オイッ!」
 直後、ごつい褐色の手が大男の太い手首を掴んでいた。
 僕よりも背の高い、男性だ。
 灰色の短髪が、金のピアスが、鈍色の陽の光を反射する。
「朝からうるッせンだよテメェら」
 ドスの効いた低い声音だった。モスグリーンの瞳の青年は一言ぶつけると、せき止めた大男の腕を力尽くで振り払った。
 
 彼は確か、ロネという。
 先日、僕らの入った“結社”の先輩だ。
 こうして前に出てくるまで、人の気配どころか足音ひとつもしなかった。いつの間にやってきたのだろう。
 
「……ロネさん? なんでここに……」
「いいから、黙ッてろ」
 少年の抱いた疑問をメアリが代弁したが、当の青年にギロリと横目で睨みつけられ、姉はムッとした顔で睨み返している。
 ――いや。やめてメアリ。怖いから。
 シエルは知っていた。メアリは昔っから負けず嫌いで、見てる方が肝が冷えるような突飛な行動を平気でするのだ。それが正直一番不安だ。
 
「ロネ?」
 名を聞いた相手の男たちが、口々に言う。
「思い出した! コイツ〈結社の番犬〉だぜ?」
「ここらの路地裏がナワバリなんだってな、ギャハハ!」
「こ〜んな若造ひとりにお散歩させてるようじゃ、“結社のボス”とやらの方もたかが知れてるよな〜」
「……チッ」
 それは微かな、小さな舌打ちだったが、こちらには聞こえた。そしてその広いこめかみに血管が浮いたのも見えた。
 
わあったなら、サッサとくたばりやがれ!!」
 ロネは両手でそれぞれ剣を引き抜くと、地面を蹴って一気に間合いを詰めた。
 斜めに跳躍するように跳ねた体躯がブレて、双剣が荒々しい弧を描く。
「ぐぁっ!?」
 大男が腹を抑えて前のめりになる。
「フッ……!」
 ロネは剣ごと振り抜くようにして、大男の巨体を路地へと吹き飛ばしてしまった。
 
「何ぃ!? うぐわぁ!!」
 飛んできた巨体を避けようとした長身の男の上半身が弾かれたように反る。が、男の動きの先には既にロネの左のダガーが迫っていた。血飛沫が飛び、長身はそのまま地面に倒れ伏してしまう。
 
「この……っ!」
 仲間がやられたのを見て、即座にロネに斬りかかろうとしたスキンヘッドの男は、
「ぎゃあぁぁあ!!」
 低い姿勢で走り出した青年が両剣を一閃しただけで、硬直したように膝をついた。
 
 ――速過ぎて、見えない!
 
 シエルは青年の動きに釘付けになった。
 手元でゆらりと揺れた双剣が光る。灰髪の青年は腰のベルトチェーンを鳴らしながら、地に伏す男を足蹴にした。先程までとは打って変わって、殊更にゆっくりとした動きで首を傾ける。
「テメェ、もっぺん言ってみろ。ウチのボスがナンだって?」
「ヒッ……!」
 男は哀れにも動くことすらできず、青ざめている。
 
「……強い」
 メアリも息を呑んだ。
 先週の適正試験のときとは、比べ物にならない強さだった。

 





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