DR+20


一章『強くなりたい』



 見慣れた屋根裏部屋に、僕は居た。
 やや低い天井、小さなシングルベッド、濃い色の机に置かれた本とランタン。
 それらはすべて、優しいメアリと、その父親であるディオル叔父さんが用意してくれた物。
 確かに数年間暮らしていた、僕の仮部屋だった。
 本の背表紙にそっと触れてみると、ざらついた紙の感触がした。
 いやに現実味のある触り心地だが、同時にここが現実じゃないことを、僕は静かに理解していた。
 帝国を出るとき、お世話になった義父や旧友の顔をもう二度と見られないかもしれないと、考えていたから。決して忘れないように、でもいつか自然に忘れられるように。ちぐはぐな願いを、何度も浮かべ続けていたのだから。
「シエル。もう休みなさい」
 背後から低い声が聞こえた。
 息をのむ。
「……叔父さん」
「夜更かしは、身体に障るよ。いつも言っているだろう?」
 いつもの、優しいディオルさんだった。最後に聴いたのはほんのひとつき前なのに、ひどく懐かしく感じ、胸が苦しくなる。
 僕が喋れないでいると、“彼”が微かに笑った。
「それに、出来立ての朝ご飯を食べそびれてしまうかもしれない」
 その言葉に、三人で囲む温かな朝食を思い出し、シエルはかぶりを振って、振り向いた。
「僕はもう……!」
 しかし、実際にそこに居たのは、【見知らぬ男性】だった。
 金色こんじきの瞳、硬質な銀髪を揺らめかせ、目の前でこちらを見ていた。
 僕の首筋に手を掛けて。
「ッ!」
 飛び退くように数歩下がる。
「ククッ──残念ダ。モウ少しで楽にしてやったのニ」
 彼の金の瞳は、本来白目であるはずの部分が黒く、異様な程ぎらついている。
 ナァ? と首を捻ったその姿は、まるで銀のフクロウのようで。
「誰、ですか」
 もう一歩、後ずさる。
 男性の奥に叔父さんらしき茶髪を視認したが、“ソレ”の顔面は真っ黒で、表情も何も見えなかった。
 二人とも、知らない。
 いや。人間じゃないのだ。
 シエルは、そう悟った。
 背後から複数の黒い手が伸びて、銀髪の男性にくっついた。
 銀の獣が恐ろしい形相で迫る。
「小僧。ゆめゆめ、俺様のことを忘レるナ──」
「い……やだ……」
 覚めてくれ、夢なら早く。
 助けてくれ、なんでもいいから、この悪夢から。
「──我が名は」
 獣は黒い手で僕の目を覆い、名を囁いた。
 
 
【──ハデス=レラ──】
 
 
「うわぁッ!」
 シエルは飛び起きた。
 天変地異でも起きたのかという勢いで起き上がったのだが、ちんまりとしたワンルームは今朝も至って静かだった。
 外から爽やかな鳥の鳴き声が聞こえてくる。
「また、か……」
 最近こんな夢ばかりで、嫌になる。昔から夢見のよい方ではなかったが、今日のは特にひどい。極悪夢だ。
 夢の中ではまだ帝国にいて、見知らぬ男性がいたが……。銀髪の恐ろしい人、あのひと、僕に向かって何か言っていたような……。と、そこまで思案して、ハタと気が付いた。
 ──寝坊では!?
 壁掛けの煌力時計レラオクロックを見ると、既に時刻は八つの時を示そうとしていた。 
「ギリギリだよ!」
 心中で焦る胸をなで下ろし、大急ぎで支度する。
 いつも通り顔を洗って、ふわふわのパンをかじって、服を着てから眼鏡を掛けるだけの簡単な準備。
 もう帝国時代みたいに、早起きして積雪と格闘する必要は無いのだ!
 そんな些細な事実が、シエルにはものすごく嬉しかった。
「……ル! ……エルー!」
 外から聞き慣れた声が聞こえてくる。
「シーエールー! 遅刻しちゃうよぉ!」
 メアリだ。彼女はもう身支度を終えて、迎えに来てくれたようだ。
「はーい! 今いくーー!」
 シエルは天然パーマの髪を紐で後ろに括り付けながら、食べかけのパンをくわえ直した。玄関前で、先日もらった《結社の笛》をポケットに突っ込むと、家を出てアパートの急な階段を駆け下りる。
 降りた先で、薄紅色のセミロングヘアが風に揺れている。
「お待たせ!」
 ともに育った義姉へ手を振る。
 レモンイエローの瞳が僕を見た。
「私じゃなくて結社が待ってるの! ほら、行くよ!」
 そう言って右手を引かれる。
「うん……」
 わざわざ手を繋がなくたっていいのに。
 メアリの世話焼きな体質は、変わらないようだ。
 曇り空、ズネアータの灰色の街中。
 小走りで急ぐ彼女の後ろを、引っ張られるようについて行く。
「今朝の体調は?」
 道すがら、またそんなことを訊かれたので、シエルは食パンを片手に応えた。
「ああ、よく寝れた。ご飯もこのとおりで」
 言いながら、三口ほどで器用にパンを頬張った。そのまま何度か嚙んで、ごくりと飲み込んで見せる。やはりおいしい。
「ならよかった!」
 彼女が流し目でふわっと笑う。
 メアリの愛らしい笑顔を見たら、今朝のひどい悪夢の話などは、すっかり言い出す気にもなれなくなった。
「そういう日はいいことがあるわよ」
 メアリがそう言った、瞬間だった。
 大通りの片隅、小さな路地から大男が出てきて、彼女の左肩にぶつかりそうになった。
 それを察した彼女の細身の体がひらりと右にずれた、直後。
 大男の巨体が同じ方向にズレて、思い切りぶつかったのだ。
「痛っ!」
「何ぶつかってくれてんだ? え?」
 間髪入れずに、大男が叫ぶ。
 男は筋骨隆々で、サイドの髪を刈り上げている。自分からは絶対話しかけたくない感じの風貌だ、とシエルは震えた。
「ごめんなさい、今急いでて!」
 メアリが謝ると、男はにやりと笑った。
「ゴメンじゃねーだろ?」
「……何?」
「リル。払えよ」
 びっくりな発言にシエルが思わず口を挟んだ。
「ちょ、ちょっと待ってください! 怪我も何もしてませんよね……?」
「はー? ザケんなよクズどもが! いいから払いやがれ!」
「……ちなみにいくらですか?」
「持ち前全部だよ。当たり前だろぉ?」
「いや……」
 だめだ。話が通じる相手じゃないかもしれない。
 周りに助けを求めたかったが、朝の大通りを道ゆく人は皆忙しそうで、路傍の騒ぎは見て見ぬ振りだ。
 耐えきれずメアリが叫んだ。
「ていうか! あなたの方からぶつかってきたんでしょう!?」
 怖い物知らずの姉は、大の男相手にガンつけている。
「いっぺん痛い目見ないとわからなーい、って顔してんな」
 大男はそんな彼女を馬鹿にしたように嘲笑すると、二回、靴音を鳴らした。
 それを合図に、背後の路地からぞろぞろと男たちが出てくる。
「やっちまうか?」
「へ〜、案外可愛いじゃん」
 長身の男とスキンヘッドの男、大男も含め、とても柄が良いとは言えない面々が揃う。よく見れば、彼らは刃物を携えている。
「……!」
 まずい。
 シエルは咄嗟に前に出ようとしたが、メアリの右手がそれを制した。
 まるで、下がって、と言うように。
「なぁ? 嬢ちゃんよぉ!」
 大男が笑う。無意味な返事を待たず、右腕で殴り掛かってきた。
「オイッ!」
 直後、ごつい褐色の手が大男の太い手首を掴んでいた。
 僕よりも背の高い、男性だ。
 灰色の短髪が、金のピアスが、鈍色の陽の光を反射する。
「朝からうるッせンだよテメェら」
 ドスの効いた低い声音だった。モスグリーンの瞳の青年は一言ぶつけると、せき止めた大男の腕を力尽くで振り払った。
 彼は確か、ロネという。
 先日、僕らの入った“結社”の先輩だ。
 こうして前に出てくるまで、人の気配どころか足音ひとつもしなかった。いつの間にやってきたのだろう。
「……ロネさん? なんでここに……」
「いいから、黙ッてろ」
 少年の抱いた疑問をメアリが代弁したが、当の青年にギロリと横目で睨みつけられ、姉はムッとした顔で睨み返している。
 ──いや。やめてメアリ。怖いから。
 シエルは知っていた。メアリは昔っから負けず嫌いで、見てる方が肝が冷えるような突飛な行動を平気でするのだ。それが正直一番不安だ。
「ロネ?」
 名を聞いた相手の男たちが、口々に言う。
「思い出した! コイツ《結社の番犬》だぜ?」
「ここらの路地裏がナワバリなんだってな、ギャハハ!」
「こ〜んな若造ひとりにお散歩させてるようじゃ、“結社のボス”とやらの方もたかが知れてるな〜」
「……チッ」
 それは微かな、小さな舌打ちだったが、こちらには聞こえた。そしてその広いこめかみに血管が浮いたのも見えた。
わあったなら、サッサとくたばりやがれ!」
 ロネは両手でそれぞれ剣を引き抜くと、地面を蹴って一気に間合いを詰めた。
 斜めに跳躍するように跳ねた体躯がブレて、双剣が荒々しい弧を描く。
「ぐぁっ!?」
 大男が腹を抑えて前のめりになる。
「フッ……!」
 ロネは剣ごと振り抜くようにして、大男の巨体を路地へと吹き飛ばしてしまった。
「何ぃ!? うぐわぁ!!」
 飛んできた巨体を避けようとした長身の男の上半身が弾かれたように反る。が、男の動きの先には既にロネの左のダガーが迫っていた。血飛沫が飛び、長身はそのまま地面に倒れ伏してしまう。
「この……っ!」
 仲間がやられたのを見て、即座にロネに斬りかかろうとしたスキンヘッドの男は、
「ぎゃあぁぁあ!」
 低い姿勢で走り出した青年が両剣を一閃しただけで、硬直したように膝をついた。
 ──速過ぎて、見えない!
 シエルは青年の動きに釘付けになった。
 手元でゆらりと揺れた双剣が光る。灰髪の青年は腰のベルトチェーンを鳴らしながら、地に伏す男を足蹴にした。先程までとは打って変わって、殊更にゆっくりとした動きで首を傾ける。
「テメェ、もっぺん言ってみろ。ウチのボスがナンだって?」
「ヒッ……!」
 男は哀れにも動くことすらできず、青ざめている。
「……強い」
 メアリも息を呑んだ。
 先週の適正試験のときとは、比べ物にならない強さだった。