夕刻の手紙


序章『僕の選んだ道』


 石畳の街角に、木箱を積んだ小さなパン屋の露店があった。朝の大通りを満たす、香ばしい匂い。シエルはその甘い匂いに惹かれて、思わず足を止めた。
 焼きたての丸いパンをひとつ、手に入れ、通りを歩きながらかじりつく。
 
「うま~!」
 
 少年は目を輝かせた。
 表面はカリッとして、中は柔らかい。こんなパンは生まれてこのかた、食べたことがなかった。帝国のパンはいつも硬く、塩辛いのだ。これなら毎日でも食べたい──。
 夢中で頬張り、気づけば食べ終わっていた。
 隣でメアリはゆっくりパンを頬張っている。
 
「パンって、こんなに美味しいものだったのね」
「びっくりだよね! ふわふわで、幸せの味だったよ〜……」
 
 かわいい姉は、白いシャツとキュロットの裾を靡かせながら、軽い足取りで街を歩く。パンを半分ほど食べたところで、彼女は周囲をくるりと見渡した。
 
「うんと……確か、この大通りを右手だったかしら?」
「どうだっけ。すごい、分かりやすい場所だったはずなんだけど……」
 
 本日、目指す場所はひとつ。
 帝国で受け取った地図を姉に見せようと、シエルはリュックから便箋を取り出した。
 手書きの地図を周りの建物と見比べ、少年は「あ」と声を漏らした。
 
「もしかして……」
 
 灰色の建物の前で、二人の男性が話し込んでいる。
 
 片や、金髪姿。シャツの首元にスカーフを巻いた青年。
 片や、白髪に青のツートンカラーの奇抜な髪、白衣を着た壮年の男性。
 
「しかし、こないだはありがとうな! 用意するのも大変だったろ?」
「ったく……。お前さんのことだ。どうせまた、急ぎの依頼でも寄越すつもりなんだろう?」
「へへッ、さっすが〈結社〉のファクターさん! アタリだ。春先の仕入れで、手が離せなくってな、コレ頼むよ!」
 
 青年の背後には、荷車がひとつ。
 白衣の男――ファクターと呼ばれた人は、手渡された書類をざっと確認し、ふたつほど頷いた。
 
「ほいよ。承った」
「いつも早くてマジ助かるぜぇ! じゃっまた来週なぁ!」
 
 嵐のように去って行った商人を、男性がため息をつきながら見送った。
 手に持ったパンの最後の一口を食べ終えたメアリが、シエルの横顔を見る。
 
「どうやら、ココみたいね?」
「うん。間違いない……」
 
 首肯して見上げた先には、巨大な灰色の建物がそびえ立っている。灰色の旗に真っ赤な鳥のマーク。
 結社〈恒久の不死鳥エタネル・フェニックス〉。シエルたちが今日、呼ばれた場所だ。
 
「まぁ……ずいぶん大きい場所ねぇ」
 
 目をまんまるにして口元を覆う姉の隣で、少年は青ざめて、足を震わせていた。
 
「どうしよう、メアリ。まるで〈軍〉みたいな雰囲気だよ! こんなの、どこから入ったら……」
「どこって。玄関しかないでしょ」
 
 メアリのツッコミが響く横で、不意に白衣の男性が振り向く。
 こちらの話し声が聞こえたのだろう。二人の姉弟を見る隻眼が細まった。
 
「おい、お前さんら」
「ぅわ!」「……!」
 
 二人は相手の男性を見た。
 伸ばしっぱなしの白髪から覗く、気だるげな藍色の目。顎には無精髭。青色のカラーメッシュが、もう片方の目を覆い隠している。
 その長身に着込んだぼろぼろの白衣……と、そこまで視認して、彼の顔がしかめられていることにようやく気がついた。
 
「なんなんださっきから、人の顔をジロジロと……。見世物ではないのだぞ、私は」
「ご、ごめんなさい! 僕ら、ここら辺のこと、よく分からなくて……」
 
 シエルは弾かれたように頭を下げて、真っ直ぐに彼を見た。
 
「あ、あの……〈結社〉の方ですよね!? 共和国でギルドやってるって言う……!」
 
 伝えねばならない。
 
 ――僕は〈結社ここ〉の人に帝国から連れ出してもらった。どうか、あなたたちと話がしたい。

「お前さんら、もしや、外国から来たのか?」
 
 伸ばしっぱなしの硬質な白髪から覗く目が、僅かに見開かれた。
 
「えっ、はい……」
「ちょっとシエル!」
 
 メアリが脇腹を突く。
 彼の隻眼は暫し、シエルの手に握られた地図と、ふたりを交互に見ていた。
 
「そうか」
 
 瞳を閉じた彼は踵を返して、結社に帰ろうとする。
 
「まっ、待ってください!!」
 
 少年の声が響く。
 男性は振り向きざまに、ひとつ、ため息をついた。
 
「一通り、話は聞いとる。入れ。なんでも、ウチの人間に用アリなんだろう?」
 
 彼は藍色の瞳でシエルを見ながら、玄関口のドアノブを持ったままでいてくれている。
 
「は、はいっ!」
 
 ふたりで礼を言って結社内に入る。
 緊張とは裏腹に、シエルの腹の底には安堵感がそっと落ちてきた。
 異国の地に住む彼が、決して怖い人ではなさそうだったからだ。
 
 
     ◆
 
 
「お邪魔しまーす……」

 シエルは地図を懐にしまいながら、そろりと足を踏み入れた。
 玄関は、大きめのロビーとなっていた。正面には受付、左右には円状のおしゃれな造りの階段。
 床に天井の灯りが反射し、整然とした雰囲気が漂っている。
 ふたりが見慣れないところで浮き足立っていると、男性はやれやれと首を振った。
 
「おおい。後で好きなだけ寛ぐといい。着いてこい」
「あ……っ、すみません……!!」
 
 歩き出した男性の後ろを追いかける。
 受付や、警備と思しきお兄さん方の横を会釈で通り過ぎつつ、階段を上がっていく。
 メアリが問いかける。
 
「ねぇ! ドコへ連れてくつもり?」
「講堂だ。今朝は、ウチの『顔』のスピーチがあるんでな……」
「『顔』? スピーチって、どんな?」
「見りゃわかる」
 
 彼は横顔でニヒルな笑みを浮かべた。
 
 どんどん上へ参ること、五階。
 シエルの足がピリピリしてきた頃に階段が終わり、今度は長い廊下を歩いた。
 通路の行き止まりに立ち塞がった大きな扉。プレートに筆記体で〈講堂〉と表記された両開きのドアが開け放たれ、薄暗な室内のオレンジの照明が視界に入り込んだ。
 
「ひっろ……」
 
 シエルの実家の敷地が丸々入ってしまうのでは、と感じるほど広い講堂内に、既に大勢の老若男女がひしめいている。黒、緑、紺、赤とカラフルな正装衣装にそれぞれ身を包む人々を、少年は口を開けて眺めた。
 
 ……もしかして僕、とんでもないトコに来てしまったのでは?
 
 おのぼりさんであるシエルは内心半泣きになった。
 
「ファクター! 時間だぜ!」
 
 遠くから呼ぶ声がする。彼は仲間の方へ頷き返す。
 
「では。お前さんらは、そのへんに固まっておけよ」
 
 男性は無精髭を撫ぜて首を捻ると、場を離れようとした。
 
「ちょ、ちょっとあなた!」
 
 姉が呼び止めても、白衣の彼は振り返らなかった。
 軽く手を挙げて応えると、足早に広間の奥へと立ち去っていった。
 
「い、行っちゃった……」
 
 シエルは目をぱちぱちさせる。
 メアリの空に泳いだ手が、ぎゅっと拳に変わったのを見た。顔を伏せて彼女がつぶやく。
 
「説明とか、全っ然なかったわね……。怪しすぎない? ココ」
「うーん。まあ、聞けばわかるって話だったし、今から〈結社〉について教えてくれるんじゃないかな?」
「こんな人数集めてスピーチなんて、フツーじゃないわよ」
 
 シエルは、あぁ……、と相槌を返して、広間を見渡した。集った人々がさんざめいている。
 
「僕も、ココまで大きな組織だとは思ってなかったなぁ」
 
 ぼんやりしながら講堂を眺めていると、ぐらついた肩に人がぶつかった。
 
「わっ!」
「…………」
 
 背の高い青年。グレーの短髪の男性は、目つきがものすごく悪くて、目力だけで熊でも殺せそうなほどの威圧感を放っている。その目で、男性は無言でギロリと少年を睨んだ。
 
「す、すす、すみません……」
「……チッ」
 
 シエルが咄嗟に謝る。見知らぬ青年は舌打ちをひとつ落として、部屋の人集りの中へと消えていった。刹那、妙に鉄の香りが漂ったのをシエルは嗅ぎ取った。
 
「なんなの、あれ!?」
 
 小声でぷんぷん憤慨している姉を嗜めようと、シエルは肩をすくめてみせた。
 
「いや、ぼーっとしてた僕も悪いよ……」
「ワルくないっ!」
「ええ……」
 
 シエルは苦笑した。
 ムキになっているときの彼女には、どこか有無を言わせぬ熱意のようなものがある。
 メアリが、少年の鼻先をツンと指差した。それは、いかにもお姉さんっぽい仕草で。
 
「あと、シエル。ここでは故郷のことなんか、絶対喋っちゃダメだからね?」
「……なんで?」
「さっき、玄関で結社の人に言い掛けてたでしょ」
 
 彼女が近くで耳打ちする。
 
「もし、誰かに〈逃亡者〉だなんて知られたら……!」
「でも、隠すなんて、現実的じゃないよ。第一、そっちのほうが怪しまれそうだし……」
「ダメなものはダメ! 正直なのはいいことだけど、嘘が必要なときだってあるの!」
「……うん……」
 
 ため息が出る。シエルとて、わかっているつもりだった。
 
 ――自身の肩書きが、異端なものでしかないことだけは。
 

 





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