夕刻の手紙


序章『僕の選んだ道』


 天空は曇天に覆われていた。
 大型船の上で、吹き荒ぶ海風が冷たい。
 
「シエル……。シエル、しっかり」
「――……?」
「聴こえる? もう着いたよ」
 
 聞き慣れた声がして、少年・シエルは顔を上げた。
 曇り空の下。海沿いの陸地に、灰色の石造りの街並みが広がる。港の角には、紫と紅白、三色の旗がはためく――共和国の旗印だ。
 
「ここが……」
 
 〈ザルツェネガ共和国〉――通称〈共和国〉と呼ばれるこの国は、過去に複数の国々がひとつにまとまった過去をもつ。祖国・〈ガルニア帝国〉と直接貿易をしているのは、ここの港のみだ。
 実質、〈帝国〉からの唯一の逃げ場所と言っていい。
 ぐわん、と少年の視界が揺らぐ。
 
「う……」
「落ち着いて。乗り降りもゆっくりでいいのよ」
「……うん。ごめん、メアリ」
 
 少年が弱々しい笑みを浮かべる。気分が優れないのは、長い船旅を経たせいだろう。
 リュックを背負って歩き出す少年の隣で、薄紅の髪がさらりと靡く。
 
「無理は禁物だからね」
 
 形の整った眉を下げて、心配そうに呟く。アンバーの大きな瞳がこちらを見ている。
 メアリ・カラーン――シエルの姉だ。シエルのために海を越え、異国まで付いて来てくれた、心優しい人だ。
 
 
 船から積荷を下ろしてゆく人々の列に加わり、船を降りる。
 低い男の声が、ふたりを呼び止めた。
 
「そこ! 止まれ!」
 
 見ると、男は迷彩色の軍服を着込んでいた。ここらの担当の軍人であろうか、と思えたのは、階級章のようなものを胸に付け、脇には一本の剣を帯剣していたからだ。
 
「なぁに?」
 
 メアリがなんとも温和な調子で言葉を返すと、軍人は冷酷に告げる。
 
「身分証を出せ」
 それは、シエルにとっては恐ろしい宣告だった。
 
 ――国境で身分証が必要なんて、聞いてない!
 
 馬鹿正直にギョッとしたシエルの前で、メアリはふと思い出したように俯いて目を細めた。
 
「それが……、身分証を落としてしまったの」
「身分証をか」
「航海中、大雨があったでしょう。あのとき、手から滑らせてしまってね」
 
 申し訳なさそうに縮こまりながら、朱髪の少女は言葉を紡ぐ。彼女は両手を重ね、祈るような姿勢を取った。
 軍人が鋭い視線を走らせる。
 
「事実か?」
「え、あ……あの……」
 
 ジッと見られて、言いよどむシエルの腕に手をやり、メアリは苦笑してみせた。
 
「もう! ごめんなさい、この子は船酔いが酷くって」
 
 今、メアリの言ったことは、事実だ。僕は今、ものすごい船酔いに襲われている。
 ――だがしかし、その前の『身分証を落とした』なんていうのは、真っ赤な嘘だ。彼女は、はたから見れば不審者かもしれない僕を、庇おうとしている。
 
「……お前は……」
 
 軍の男は、その少年の顔をしげしげと見つめた。
 
 くるくるの茶色い天然パーマを、後ろでひとつにくくった少年。銀のジッパーのついた黒い上下服は、どこか大人びて見えたが、彼の顔にはまだ幼さが残る。眼鏡の奥に光る翡翠色の瞳が、印象的な少年であった。
 
「……なんだ、よく見りゃまだ子どもか。では、そちらは家族か」
「ええ。この子の姉です。付き添い役なの」
「まあいい、今回だけだ。通りな」
「え……」
 
 少女のハキハキとした受け答えが功を奏したのか、雑に流される。
 
「ありがとう、軍人さん。さ、行こ!」
 姉はにっこり笑みを返して、シエルの手を掴んだ。
「あ、ありがとう、ございます……」
 
 温かい手に引かれながら、少年は内心不安で焦っていた。心臓の動悸が止まらない。
 
 メアリの機転でなんとかなった。なにせ、法も文化もまったく違う異国である。こんな場で『身分証を落とした』なんて嘘八百、よく吹いて見せたものだ。
 
 ガルニア帝国では、政府が名簿を管理している。よって、身分証などは無い。申請すれば、渡航許可証が出なくはないが、現在の情勢的に厳しい。
 今後はこういうことが無いように、軍人相手の対応は気をつけよう……、とシエルは内省した。
 
 
 港の先へと歩いてゆくと、複数の人影がふたりを待っていた。
 赤黒いフードを被った背高な人が、その振り向きざま、軽く手を振る。
 
「やぁ。遅かったね、ふたりとも」
 
 フードの下で、不敵な笑みを見せる気配がする。
 姉が進み出て、咎めるような口調で告げた。
 
「ちょっと、あなた……!」
「お疲れのようだね? 分かるよ。なにせ随分、長い航海だったからね」
 
 フードの人物は、頷きながら腕を組んだ。まあ皆まで言うな、と言うように。右手をひらりと泳がせて、彼は続けた。
 
「我々はこれから、首都〈ズネアータ〉へと向かおうと思う。急ぎ、〈結社〉に帰らねばならないのでね」
「〈結社〉?」
「職業集団──ギルドのことさ! 私はそこに務めている。なに、乗り合わせた船という言葉もある。積もる話もまた、山ほどね。よければ、君たちも一緒に来てくれるかい?」
 
 彼が手を伸ばす。
 どうやら、シエルたちは歓迎されているようだ。
 が、歓迎を受けたメアリの反応は遅れた。その手を握るでもない。
 
「……ああもう、そんな、勝手な……」
 
 喜び方を迷っているのか。いや、違う。彼女はおそらく、さっきの検問について、文句のひとつも言いたいのだ。
 
 困った様子でひとつ呟いた姉の隣で、シエルは先に『船で運んでくれたことへのお礼』を言おうと試みた。
 
「あ、あのう……ありが……う、うぅぐぇ…………」
 
 結果はひどいありさまだった。
 急激に酔いが上がってきて、少年はその場に膝をついてしまった。
 
「シ、シエル!」
「その様子では、……難しそうだな」
 
 驚いて一緒にしゃがみ込む少女を見遣り、フードの人は肩をすくめた。
 少し考えるようなそぶりをしてから、彼は口許に笑みを浮かべて、指を一本立てて見せた。
 
「では、宿を取ろう。ふたりで、少し休んでから〈港町ジルド〉を出るといい」
 
 彼がふいっと指をやった先には、共和国の港の大きな民宿がある。
 シエルは外泊した経験はなかったが、一晩とめてもらうにはそれなりの対価がかかることだろう。
 考えたシエルは、必死に言葉を紡いだ。
 
「で、でも……っ、お金が……」
「フ……問題ない。最低限、必要なリルは渡しておくから――」
 
 謎の人物は赤黒いローブの懐をまさぐって、朱髪の少女の手のひらに、紙幣数枚と金貨を乗っけた。
 
「どうだい。宿代と馬車代には、充分だろう?」
「…………」
 
 メアリは大きな目をぱちくりとさせた。毒気を抜かれたみたいだった。
 フードの人は、踵を返し、ブーツの靴音を響かせながら細長い手を振った。
 
「馬車に乗って、首都までおいで。──〈結社〉で待っているよ」
 
 去り際に影から覗いた切れ長の真っ赤な瞳が、やけに美しい人だった。
 
 
 
 ――……
 ――――……
 
 その夜、安宿をとって、ベッドの隅で少年はうなされていた。
 悪夢を見た。
 雪の中。自分自身が軍服を着て、誰かを追っている。黒と赤の軍服――祖国・帝国軍の象徴だ。
 前を走る小さな人影。僕が追っていたのは、幼い頃の自分の姿だった。柔らかな茶髪の少年。ぼろい服を着て、各所に赤い腫れ物ができている。
 幼い頃の自分が雪の中を必死で逃げているのに、シエルはナイフを持って過去の自分自身を追っている。
 
『――臆病者! 逃ゲルナ!!』
『いやだ、怖い! 怖いんだ……僕はもう、なにもかも!!』
『臆病者ハ――コノ世界ニハ要ラナイ!!』
 
 己の声帯から発せられる 声が低く歪んでいる。
 幼い子を追い詰めるのに、そう大層な時間はかからなかった。
 僕は幼い自分に銀のナイフを振り下ろした。
 
 ――――……
 ――……
 
「……あ……」
 
 シエルはシーツを握りしめたまま、泣いていた。
 ぎこちなく開いた手の中には何もないが、こわばって、じっとりいやな汗をかいている。
 
「起きた?」
 
 姉の声。
 咄嗟に、目元を服の袖で何度か拭う。
 軽く寝返りを打つと、すでに起床していた姉が微笑んだ。いつの間にかカーテンは開いていて、窓からは微かな日差しが差し込んでいる。
 少年は息を吐いた。
 
「……おはよう、メアリ」
「おはよう。シエル……うなされてたみたいだけど……」
「う、ううん。なんでも、ないよ」
 
 そう、と小さな返事が返ってくる。姉に深く追及されないことは、今はありがたかった。悪夢を見て泣いたなんて……、絶対に知られたくない。
  
 逃げた先で見るのが帝国時代の景色とは、我ながら呆れてしまう。
 自分はちっぽけで、ひとりじゃ外の人とのやりとりすらままならない。
 
 道中の船の上では酔ってしまって、ほとんど何もできなかった。
 知らない誰かと目を合わせるのも、話しかけられるのも、ひどく疲れた。
 眠れたと思ったら、悪い夢を見て目を覚ました。
 ……胸がちくちくする。
 
 メアリは優しいから、これを言ったら慰めてくれるだろう。だけどそういう姉相手だからこそ、言いたくないこともある。
 
 ――僕はどこで息をすればいいんだろう。
 
 問い先を見つけられない言葉は、街の朝霧の中に霞んでいった。
 

 





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