序章『僕らの選んだ道』
――……
ずっと走っていた。
なにかに、追われているような気がしていた。
それは敵国の兵士だったかもしれないし、祖国の大人達だったかもしれない。
僕を追う影はドス黒いモヤのような形で現れて、いつも明確な形を成さない。
いつの間にか、すぐ側に居た巨大な影は、言葉を発さないまま、数多の腕で暗闇の中へと僕を引きずり込もうとする。
痛い。
苦しい。
やめてくれ……!
今にも潰れてしまいそうだったその時、突然手を引かれた。
天まで届きそうな、背の高い塔から舞い降りた、人。女神みたいな、虹彩。
白くて綺麗な手が僕の手を取って、
光へ――――。
「……あ……」
柔らかなベッドの感触。
目を覚ましたシエルは、手を伸ばしたまま、泣いていた。
「夢?」
いやな目覚めだった。いちいち眼鏡を掛けるのも億劫なくらいには。
布団と一緒に眠気も引き剥がして、起き上がれば、勢いよくカーテンを開ける。とっくに山からのぼっていた朝日は、向かいの食事処からひょっこり顔を覗かせていた。窓を開け、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んで、吐いて。一息ついたら顔を洗いに行く。
『水ノ聖歌ネロ=エイラ』。詠唱によって浮いた水球に顔面を埋めて洗い流したら、そのまま排水に吹き飛ばした。この辺りは故郷に似て水辺が近いようだから、水の術が使いやすくて助かる。
四角いテーブルの上にあるバケット。
その中から、大きなロールパンを手に取ったシエルは、香ばしい香りに惹かれて一口かぶりついた。
「うまっ……」
こんなにも柔らかく、おいしいパンを焼けるだなんて、職人は天才か。
どこの店で買ったんだっけか、などと遡りかけた思考を、目の前の光景が引き止めた。
テーブルの脇には、大きなリュックと、ポシェットが置いてある。それだけならまだよいのだが、分厚い毛布から大きなテント類、ペンや小瓶などの細々とした小物までもが、フローリングの床にゴロゴロと転がっていた。
いつかは片付けなければいけない。
しかし、海外までの長旅を共にした荷物たちだ。妙な愛着から手をつけたくなくなってしまって、引っ越してきた日のまま、今もこうして置いてある。
まあ、新居に誰を呼ぶわけでもないし、いいだろう。
今日もそう結論づけた少年は、きつね色のパンを器用極まりないスピードで口の中に押し込んだ。
両手を組んで礼をする。
「ご馳走様です!」
ほんとはもっと味わって食べたかったけれど、今日の約束には絶対遅れられない。
シエルは大急ぎで着替え始める。
大きな熊の描いてあるオシャレパーカーも、村の道着の下穿きも今日は必要ない。
素材のよい黒いインナージャケット。細身の黒いズボン。大事な眼鏡もかけて。
首元のジッパーをしっかりと閉め、姿見を見れば、今朝も元気に跳ね回ったブラウンの天然パーマの姿が映っていた。
緑の瞳で自分の風貌とにらめっこしながら、髪のうしろを紐でさっと括り付けてやる。
「よし!」
髪型がまとまると、服の効果も相まって少しはすっきりとした佇まいに見えた。
シエルは身だしなみに満足すると、黒いポシェットを肩に引っ下げた。
家のドアを開ける。
「行ってきます」
石造りの階段を踏みしめて、降りると、見覚えのある人影が手を振っていた。
「シエルー!」
さらりと流れる薄紅色の髪に目立つ、長いエルフ耳。美しい顔によく映える花形のスカーフ。細身の体に纏ったグレーのインナーも、とても似合っている。
身軽なキュロットを靡かせて、彼女が歩み寄った。
「おはよ! ねぼすけさん」
小首を傾げた女性がはにかむ。
「メアリ……おはよう!」
「ふふ、おはよう」
今朝もおはようを二回言う、穏やかな口調。
メアリ・カラーン。シエルの義姉だ。
シエルのために海外まではるばる付いて来てくれた、心の優しい人だ。
「いこっか!」
人並のある雑踏の中を、二人は流されるように歩き出す。
異国・ザルツェネガ共和国の首都、ズネアータの大通りは、朝から賑やかだ。灰色の硬材で出来た街並みを彩る薄紅色の並木道──花びらが舞い散る路傍には、たくさんの露店が立ち並んでいた。
「今朝は調子どう?」
メアリが明るく問いかける。シエルの脳裏には一瞬、明け方の悪夢がよぎったが、反してへらりと笑って見せた。
「げ、元気だよ。昨日買ったパンが美味しくてさー」
「あぁ! あれ美味しかったねえ。ふわふわして」
「そうそう! もう、お菓子みたいでサイコーだった!」
どうしてパンってあんなに幸せな気分になれるのかしら、なんて、ニコニコしている可愛い姉に、シエルは一つ確認したいことがあった。
「メアリ。あのパンさ……どこで買ったか、覚えてる?」
彼女は即答した。
「勿論! この通りにあるおっきな宿屋から、ちょっと行った角を曲がったとこでしょ。……忘れちゃったの?」
メアリが不安げに小首を傾げる。
彼女の反応も無理はない。
何せ、昨日一緒に買いに行ったはずだった。引っ越しの日用品買い出しの帰り道のことだ。忘れるほうが難しい。
しかし、今は頭の中に変な物が引っかかっているような感覚がして、上手く思い出せないのだ。
「あはは……なんか記憶が曖昧で……」
「も~シエルったら。しょうがない子ねぇ」
疲れてるのよ、きっと。
少年の苦い返事をよそに、メアリはにっこりと笑みを浮かべた。
「じゃあ、そのうちまた買いに行こう? ここから近かったし!」
ほら! と白い指が示す先には、彼女が言った“大きい宿屋”があった。
首都一番の満足度! ――看板の文字がぼやけて読めない――。しかし建物には見覚えがある。
シエルは眼鏡のつるを持って、ほっと息を吐いた。
「ほんとだ」
「今後何かあったら、ここで集合にしよ!」
「わかった。覚えとくよ」
「頼んだよーっ!」
バシッと背中を叩かれた。痛っ、と思わず口から悲鳴が出たが、実は全く痛くない。
メアリの手加減がうまくなったのは嬉しいなぁ、などとシエルは呑気に思った。
「それで? この大通り、右手だったかしら?」
「うーん……すごい、分かりやすい場所に載ってたはずなんだけど……」
本日、目指す場所は一つだ。
地図だとこの辺だったよね、と辺りを見渡すメアリに、持っている地図を見せようとポシェットから便箋を取り出す。
手書きの地図と近くの建物とを見比べて、あ……と少年の声が漏れた。
「もしかして──?」
灰色の建物の前で、二人の男性が話し込んでいる。
片や、シエルには珍しく見える金髪姿、シャツの首元にスカーフを巻いた青年。
片や、白髪に青髪のツートンカラー、白衣を着た壮年の男性。
「しかし、こないだはありがとうな。助かったぜぃ」
「ったく……。お前さんのことだ。どうせまた、急ぎの依頼を寄越す気なんだろう?」
「へへ、さっすが〈結社〉のファクターさん! アタリだ、春先の仕入れで手が離せなくってな。これ頼むよ!」
金髪の青年の背後に、荷車が見える。
手渡された書類をざっと見て、ファクターと呼ばれた白髪の男性はふたつ程頷いた。
「ほいよ。承った」
「いつも早くてマジ有難いぜぇ! じゃっまた来週なぁ!」
嵐のように去って行った商人を、男性がため息をつきながら見送った。
ひとつだけ、確かになったことがある。
メアリは肩をすくめて、シエルの顔を見た。
「ここみたいね。集合場所」
「──うん。間違いない……」
視線を戻せば、目の前には巨大な灰色の建物がそびえ立っている。黒くて禍々しい看板に真っ赤な鳥のマーク。
結社〈恒久の不死鳥〉。
シエルが今日、呼ばれた場所だ。
「まー。さっきの宿屋より大きいわね」
目をまんまるにして口元を覆う姉の隣で、少年の足は震えていた。
「どうしよう、メアリ。軍みたいなデッカさだよ! 一体どこから入れば……!?」
「そんなの聞かれても」
こちらの話し声が聞こえたのだろう。不意に白衣の男性が振り向く。
二人の姉弟を見た隻眼が細まった。
「おい。どうした? お前さんら」
「ぅわ!」「……!」
二人は相手の男性を見上げた。
伸ばしっぱなしの白髪から覗く、気だるげな藍色の目。顎には無精髭。青色のカラーメッシュが、もう片方の目を覆い隠している。その長身に着込んだぼろぼろの白衣……と、そこまで視認して、彼の顔が顰められていることにようやく気がついた。
「何なんだ先ほどから、人のことをジロジロと。見世物ではないのだぞ、私は」
「ご、ごめんなさい! 僕ら、ここら辺のこと、まだ不慣れでして……」
シエルは弾かれたように頭を下げて、真っ直ぐに彼を見た。
「あ、あの……〈結社〉の方ですよね!? 共和国でギルドやってるって言う……!」
伝えねばならない。
――僕は結社の人に帝国から連れ出してもらった。どうか、あなたたちと話がしたい。
伸ばしっぱなしの硬質な白髪から覗く目が、僅かに見開かれる。
「お前さんら、もしや、外国から来たのか?」
「えっ、はい……」
「ちょっとシエル!」
メアリが脇腹を突く。
彼の隻眼は暫し、シエルの手に握られた地図と、二人を交互に見ていた。
「そうか」
瞳を閉じた彼はくるりと踵を返して、結社に帰ろうとする。
「まっ……待ってください!!」
少年の声が響く。彼は振り向きざまに、ひとつ、ため息をついた。
「一通り、話は聞いとる。入れ。なんでも、ウチの奴に用アリなんだろう?」
そう言って、玄関口のドアノブを持ったままでいてくれている。
「は、はいっ!」
ふたりで礼を言って結社内に入る。
緊張とは裏腹に、シエルの腹の底には安堵感がそっと落ちてきた。
異国の地に住む彼が、決して怖い人ではなさそうだったからだ。