DR+20


小説における人称視点について、考えたりします。

よく、SNSやブログなどで目にする「1人称と3人称の視点が混ざっているのはNG」説、これって本当かな? と実は昔から疑問を抱いています。

もちろん技術のひとつであり、文章の没入感に関わる部分なので軽視できない要素ではあるものの…

変な話、言葉や文章としてスムーズに意味が伝わるのであればそこは深く問われないのではと、いちライトノベルの愛好家としては思うんですよね。

群像劇の途中で主人公の独白が入ったって、1人称の途中で空より高いところから神視点のカメラが街の足元まで降りていったって構わない。

そんな文章も、面白いじゃないかっ!!!

…こんな具合に思う、下手の横好きなわけです。

 

拙宅の創作でも、人称視点をわざとまぜこぜに配置している場面が多々ありますので、もしかすると読みにくさを加速させているかもしれないのですが、上記のような不思議な人間が書いている為(……)、しょうがない部分ではあります。

例えばひとつの例として、私の創作内では「主人公が誰かに呼ばれるまで、地の文でも主人公の名前を基本記さない」と決めています。

なので、最初は「俺は〜/男は〜」の文で始まって途中から「〇〇は〜」と名前を書くようにしている。その影響で人称視点がシームレスに移行したりします。

これはなんでなのか、と聞かれたら、キャラが他者に呼ばれて紹介映像みたいにピックアップされる、あの創作特有の描写がめちゃくちゃ好きだからです。

なんか、文字数がー、とか、語尾が〜、とか、色んな暗黙のルールがふわふわネットを浮いてたりする世の中、それでも好きならなんでも書いたらいいんじゃないかなって思います。

人の好きなものは読んでて楽しい。

やっぱりそう感じる、今日この頃です。